南無(ナム)

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南無(ナム)

南無(ナム)

仏や菩薩を祈るときの言葉です。ナムアミダブツやナムカンゼオンボサツと使います。意味は「帰命」、命を帰すということです。ナムアミダブツなら、

阿弥陀仏に命を帰します、ということです。

一度、帰した後は、自分は自分のものではありません。これが南無です。

仏教は無我の教えです。本来ない自分が迷いにより出現します。

仏や菩薩に南無と祈るのは、自分を帰して無くす無我の行為です

徳は孤ならず

徳は孤ならず

     必ず隣あり

論語に出ている言葉です。「徳のある人は、孤立しない。必ず理解者や協力者が現れる」という意味です。

何かを行おうと思った時、周囲の理解を得られない場合は、まず、行おうとしていることが、本当に必要かをもう一度考えます。

次に行うのは、周りの説得ではありません。大切なのは、周囲の理解ではなく、自分に徳があるかどうかです。

徳は身を慎むことや、他人のための行いで積むことができます。

 

心とは?

心とは 如何なるものにて あるやらん 

そういう者が 心なりけり

心とは何だろう?と、考えているものが心である。という歌です。

私たちの心は、見たり聞いたり考えたりと、活発に動いています。しかし、その心とは何か?と振り返って探しても、心はどこにも見つかりません。

ものの見方や考え方を握りしめている手を開いて、心を開放して自由に動かしましょう。心は、見ることは出来ませんが、すでにそれを生きています。

この心に気づくことが仏教の目的の一つです。

こころの調音

こころの調音

お釈迦様は、こころの調えかたを楽器の弦にたとえて説明しています。

ギターなどの楽器から美しい音を出すためには、弦がゆるんでいても張りすぎていてもいけません。ゆるんだ弦からは音が出ませんし、張りすぎた弦は、すぐに切れてしまいます。

私たちのこころも、すんだ音が出るように調節しなければなりません。怠惰なこころでは、何もできませんし、張り詰めたこころでは、切れてしまいます。ゆるまず張りすぎず、丁度良い調節が必要です。

 

サトリと木こり

ある木こりが、サトリという妖怪を生け捕りにしようと、深い山奥まで来ました。サトリは相手の心を読みます。木こりも心を読まれてしまい、どうしてもサトリを捕まえられません。ついにサトリを生け捕りにするのを諦め、斧で打ち殺して捕まえるしかない、と思っていると、その心も読まれてしまいました。

サトリを捕まえることを諦めた木こりは、自分の仕事に戻ります。無心で木を伐っているうちに、すっかりサトリのことを忘れました。その時、斧が柄から外れ、サトリに命中したそうです。

サトリ(悟り)を捕えるには、サトリにとらわれず『今やっていること』に集中することが重要なのです。

いのち

命とは わが物なりや わが命 

わが物ならずと 身をもちて知る  

窪田空穂

この命は自分のものだろうか?という疑問を詠んだ歌です。人は、当然のように自分のものと思っていますが、どうなのでしょうか。

この小さな命は、大いなる命、仏心とつながっています。春に花が咲くのも、秋に紅葉が色づくのも、大いなる命、仏心のあらわれです。

この大いなる命の一部をあずかって、人は生きています。

おあずかりした命、あなたはどう使いますか?

無心

無心

ある人がムカデに聞いたそうです。

あなたは、百本もの足を自由に使っていますが、いったい、どの足からどんな具合に動かしているのですか?

今まで無心に歩いてきたムカデは、質問されて考え込んでしまい、動けなくなって、死んでしまったそうです。

私たちも、普段何気なく手足を動かしたり、お喋りしたりしていますが、あれは、考えてやっているのではありません。

考えすぎて、逆に動けない人が多いようです。

 

自分

自分というものは、有るのか無いのか、考えている。禅の課題はこれに尽きるであろう。

唐突だが、そこで『滝』について考えてみる。常識では滝は有る。写真にも撮れる。名前もついてそこに存在している。華厳の滝、浄蓮の滝、白糸の滝。

しかし、その滝の水は、すごい速さで落ちている。数秒前の水はもうどこにもない。水はすべて入れ替わっているのだ。でも我々はそれを同じ名前で呼ぶ。はたして、その滝は、有るのか無いのか?

同様に、自分の体も日々変わっている。子供の頃の細胞などどこにも残ってはいない。すべて入れ替わっている。でも我々は同じ名前で自分を呼ぶ。同じ自分だと思っている。はたして、自分は、有るのか無いのか?

有るようで無い、無いようで有る。分別心にはそう映る。

クツを履く

クツを履く

コロナ騒ぎも収まらないうちに、次は戦争です。地震などの自然災害も、いつ起こるか判りません。世界は、人間の思惑など関係なく動いています。

この娑婆世界(苦の世界という意味です)を安全に歩むには、どうすれば良いのでしょうか。柔らかいジュータンを世界中に敷きつめるのは、大変な作業です。そこで、各自でクツを履きます。慈悲のクツ、徳のクツ、覚悟のクツ・・・

あなたは、何のクツを履きますか?

無我

先日、職員の女性からお話がありました。

その方のお母さん仲間が、がんで余命宣告をされたそうです。会いたいとのことなので病室を訪ねたが、こんな時なんと言葉をかけたらいいのでしょうか?とのことでした。

その女性には、人は本来この世界と一体だから、そのご友人は、生まれくる前の世界に戻るだけです。あなたは素直にそのご友人に共鳴していればいいんじゃないでしょうか。とお答えしました。

そのご友人は、今までお世話になった人に感謝の気持ちを伝えているそうです。この方のように、心の目が外を見ている人は大丈夫です。自分を見つめている人には、自己の死は終わりに見えます。もともと自分などいません。自分などは、自我などは、育ててきた誤解です。いるように感じているだけです。どこにもいない自分が苦しみ、苦しめているのも自分の思い、分別です。

この迷いの根本、自分を自我をなくすことが修行です。自分の無い安楽の境地を『無我』といいます。