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7月の坐禅会は28日(日) 。 写経会は4日(木)、25日(木)。25日の写経会は満席です。

2016-05-23

四苦八苦

2019-06-9

四苦八苦
生老病死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを足したものを四苦八苦という。
最初の四苦、生老病死は生き物としての人間の苦しみ。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦は社会的苦しみ、五蘊盛苦は前の七つの総括と考えられる。
 
・生苦・・・生まれる苦しみ。
生きる苦しみではなく、生まれる苦しみ。生まれるのがどうして苦しみなのか。
生まれる以前は、自己は世界とひとつであった。世界そのものであった。それに肉体と精神いう枠組みを与えられるのが、生まれるということ。世界と一体の海からの自分というものの波立ち。
生まれたばかりの赤ん坊には、多分まだ分別は無い。母親を認識するのが、最初の分別。それから5年経ち、10年経ち、世界はこのようにバラバラに分かれてしまい、本来無かった自我まで形成されて、あたかも有るように見えてしまう。 
 
・老苦・・・老いていく苦しみ。
齢をとり、足腰が弱り、眼は遠くなり、歯は抜け、今まで普通に出来ていた事が出来なくなる。だんだん体が思うようにならなくなる。
 
・病苦・・・病気の苦しみ。
動く事も難しくなり、機械につながれ、だんだんやせ細ってゆき、死を考えるようになる。
 
・死苦・・・死の苦しみ。
自我が消え去る恐怖。本来死ぬとは、また一体の世界に還る事なのだが、この肉体と精神という枠組みに囚われた我々は、そこに自我という無いものをあたかも有るように思い、その自我を失うことを恐れる。肉体と精神という枠組を使う主体と考える自我は、妄想であり、錯覚である。
 
・愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する者と別離すること
家族や知人、どんなに大切な人ともいつかは分かれなくてはならない。最終的には、必ず人は死によって引き裂かれる。
しかし死とは無になることではない。全てになることである。そこを良寛さんは、形見とてなに残すらん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉 と歌った。自分は死んでも春は花になり笑おう、夏はほととぎすとして鳴こう、秋はもみじとして色づこう。という意味です。良寛さんは死んで世界になっている。 
 
・怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎んでいる者とも交わらなければならない
仕事をしていれば、誰もが思うことです。また親戚関係、ご近所の関係、知人の関係、とにかく人間関係のあるところには、全てこの苦しみがついてきます。
何故他人を嫌うのか。多分お互い我を張り合っているから。自我をぶつけ合っているから。本来なかった自我を、成長とともにあるように錯覚した自我のぶつけあいが原因。
 
・求不得苦(ぐふとくく)・・・求める物が得られないこと
私たちには、あれが欲しいこれが欲しいと欲があります。美味しいものが食べたい。ブランドのバックが欲しい。海外旅行に行きたい。しかし、その多くはかなえられない。
高邁な願いであっても、かなえられない事が多い。たとえば平和。世界のどこかで人と人が殺しあっている。人種が違うから、宗教が違うからと戦っている。日本人のほとんどが、平和を願ってもそれはかなわない。求不得苦、求めても得られない。
 
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・存在の苦しみ。
この世界に、肉体と精神という枠組みを与えられ、私たちは生まれて来てしまった。海から波立って生まれ来てしまった。そして、本来ない自我も年齢とともに発生して、世界はこのように分節した存在になった。
これは元一体の海だったものが、存在という波になってしまったことが、原因である。存在する事、あること、それ自体を仏教は苦と捉える。
しかし、良く考えれば、波は海で出来ている。この肉体という波も、精神という波も、みな海で出来ている。その海を仏という。我々は、仏の波立ちなのである。そこに仏教の救いを観るべきであろう。

食事五観の偈

2019-06-9

五観の偈

一には功の多少を計り彼の来処を計る。
第一には、この食事がここに来るまでに、どれだけの人や自然の力をいただいたか、よく考えます。
この一椀のご飯も、大地の恵み、水の恩恵、光が降りそそいで、やっとお米ができます。もちろん農家の力をかり、それが運送され、お米屋さんが精米してくれます。最後にそれを調理してくれる人が居ます。それらの人や自然の恵みでこの一杯のご飯がここにあります。これはすごい事です。あだやおろそかには出来ません。
 
二には己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず。
第二には、果たして自分にこの食事を頂くだけの徳があるだろうか。
私たちは、自分のお金で買った物は、自分のものだと、どう使おうと勝手だと思っています。コンビニのおにぎりなどは、百数十円で買えます。あれだけの人の手を煩わせながら、それをお金で数えます。しかし、禅寺ではそれを自分の徳で数える。はたして自分にそれだけの徳があるかどうかと。
 
三には心を防ぎ過貧等(とがとんとう)を離るヽを宗とす。
第三には、心を守って、貪りなどから離れます。 
まず禅寺では好き嫌いを言わない。美味い不味いを言わない。出してもらったものを、ありがたく頂く。やれこの食材はどこそこの物だの、少し固いの柔らかいのとも言いません。それは貪りになります。
 
四には正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
第四には、食事は薬と同じである。修行する体を守り、健全な精神を維持する為のものである。 
美味しいものの食べすぎで、体を壊しては、本末顛倒です。程よいものを、程よく頂く。腹も身のうちです。質素なものを腹八分目。ただ道場では、ものが残せない。全部ありがたく頂く。信者さんの家に行くと、食べきれないほどのご馳走が並んでいる時が有ります。始めてのことですが、今の禅僧は食べ物を残します。もちろん食べない皿にははじめから手をつけません。豊かになった時代には、こういうことも起こる。
 
五には道業を成(じょう)せんが為めに当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。
第五には、仏道を成就する為にこの食事をいただきます。 
食べる為に働くのか、働く為に食べるのか、という質問が有ります。食べる為に坊さんをしているのか、修行する為に食べるのか。修行する為に食べるのにきまっています。坊さんは飯拾いの方法ではない。そして最後には仏道を成就したい。これが僧侶の誓願です。
この五つを修行道場では、食事の前に毎日読んでいます。我々禅僧の理想です。

悪口は毒蛇である

2018-09-11

悪口は毒蛇と思え、受け取るな
 ある日、お釈迦様が弟子たちと托鉢をしていると、「俺たちは働いているが、お前たちは何もしない。まるで乞食じゃないか」と罵倒されました。
それを聞いてお釈迦様は、「言いたいことはそれだけですか」とすぐに立ち去りました。
不満に思う弟子たちにお釈迦様は、「あなた方は、誰かが毒蛇を手渡してきたら受け取りますか?」と尋ねました。そして「受け取らなければ、その毒蛇は、渡そうとした者の手元に残るだけである」とお説きになりました。
理不尽な悪口を言われたら、それを毒蛇と思って受け取らない。それが仏の教えです。

ストゥーパ

2018-07-26

ストゥーパ(塔婆)
ストゥーパとは仏塔のことで、仏様を供養するため、インドで建立されたものです。
仏教が日本に伝わった時にも、仏塔が建立されました。法隆寺や興福寺などの五重の塔です。時の権力者が財力を尽くして建立しました。日本中の五重の塔はみなストゥーパです。
そのストゥーパを漢字にしたのが卒塔婆です。今では仏様や先祖を供養するために、私たち庶民でも建てられるようになりました。法事や施餓鬼で建てる塔婆、あの一本一本に仏塔建立と同じ功徳があるのです。

貫くもの

2018-01-27

去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの   虚子
この句を鎌倉駅で見た川端康成は背骨を電流が流れたような
衝撃を受けたと言っています。
この「貫く棒」とは何でしょうか?
ある人には信念であり、ある人には生き様そのものでしょう、 

さて、あなたの「貫く棒」は何でしょうか?

命のバトン

2017-10-8

  けさ秋や 見入る鏡に 親の顔   鬼城
朝鏡の前に立ち、ギョッとすることがあります。自分の姿に親の面影を見るからです。
この命は両親から受け取ったものです。両親は祖父母から、祖父母はまたその親からと、想像もできない過去から受け継がれ、今は自分が握っている命のバトン。
それを仏教では仏心といいます。仏心一つだけを貰い受け、仏心を生き、仏心に帰る。みな仏の中の仏の出来事です。

私はどこへ去るのか?

2017-05-6

我が生 いずこより来たる   去って いずこにか行く           

良寛さんの言葉です。自分はどこから生まれ、死んでどこに行くのか?   

晩年の良寛さんはこう歌っています。

形見とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

自分は死んでも桜として咲き、ホトトギスとして啼き、紅葉となり色づく。

自然と一体になった素晴らしい境地です。

今を生きる

2017-01-26

咲くも無心 散るも無心         
花は嘆かず 今を生きる
坂村真民さんの詩の一節です。私たちは過ぎた日々を後悔したり、自分の行く末を不安に思ったりして生きています。                  
しかし、過去は戻りません。未来はまだ来ていません。私たちが生きているのは、今だけです。
花のように無心に、今を精一杯生きましょう。 

怒りと憎しみ

2016-09-18

人間の感情の中で、特に苦しいものが、怒りと憎しみの感情です。
心の中にある怒りや憎しみにどう対処したら良いか?という質問を多くの方から受けます。
仏教では、その心の調え方をこう教えています。
怒りや憎しみの感情を素直に受容し、その変容を待つ。つまり、
・怒りや憎しみには、もともと実体がない。
・ちょうど鏡に映った姿のようである。
・心の鏡に怒りや憎しみが、映れば映ったまま、おこれば起こったまま、やめば止んだままにしておく。
・時とともに、心は静かで平安な状態に変わって行く。
時間のかかる大変な行為です。しかし、怒りや憎しみを抱いている相手の変化はまず望めません。自心を変える、これが仏の教えです。

お盆と施餓鬼米

2016-07-2

お盆は、お釈迦様の弟子、目連尊者の故事に由来します。ある日、目連様が亡母の様子を神通力で見ると、亡母は地獄で苦しんでいました。驚いた目連様は、神通力の限りを尽くしましたが、どうしても救えません。
そこでお釈迦様に相談すると、厳しい夏の修行が終わる七月十五日に、修行僧たちに食事を供養するよう言われ、その通りにすると、亡母は天に生まれ変わったそうです。七月十五日は今ではお盆の明けの日に当たります。
お釈迦様は直接故人に供養するより、本当に修行している人を供養することが、故人の幸福につながると教えたのです。
洪福寺で、お盆・お施餓鬼に供養していただくお米は、全て建長寺の修行道場へ送ります。目連尊者にならい、日々厳しい修行に明け暮れている修行僧を供養することによって、先祖の冥福を願うことが、施餓鬼米の始まりです。