十牛図 第九

語録提唱

十牛図 第九

2019-07-30

第九 返本還源
 

本来清浄にして、一塵を受けず。
本来清らかであり、塵ひとつない。
本へ返り源へ還る。
衆生本来仏なり。このままで迷いの塵は一つもない。先週お話した、何もない処が本源のように思いますが、このありのままの世界こそが、本へ返ったところであり、源へ還ったところです。有に成りきった処が無で、そこを通っての有がここでは説かれています。
 
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。
この栄枯の仮の世界をそのまま寂滅と観る。
この栄枯盛衰の世界に徹して、それを寂滅と見る。無一物中にすべてが含まれている無は、有に成りきった無です。前回の何も無い円相は今日の返本還源と表裏の関係にあります。
 
幻化に同じからず、豈に修治を仮らんや。
これは幻とは違う。何か手出しする必要はない。
この一度空じた世界は無相の真実の世界です。また、ここ以外に他の世界が有るわけでもない。成りきれば相は無い、無相です。成りきらなければ相が有るように見える、有相です。真実ですから手出しは無用です。
 
水緑に山青うして、坐(いなが)らに成敗を観る。
水は緑、山は青い。坐ったままそれを眺めている。
このままの様子です。柳は緑、花は紅。このままありつぶれて、そして、還ってきた世界。この一本の樹は、有無も主客も離れた樹です。
 

本に返り源に還って已(すで)に功を費やす
本源に帰ってみれば、随分苦労をしてきたものだ。
空のところ、何も無いところが本源ではない。そこから還ってきた世界が、本源です。道元禅師に有名な歌が有ります。春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えてすずしかりけり。この歌に禅師は本来の面目という題をつけている。このありのままの世界が本源です。
 
争(いかで)か如(し)かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには
ただ盲聾のように成ればよいのである。
これが追わず払わずです。見たものに囚われない。聞いた音を追い払わない。囚われずにスッと流す。追い払うのも囚われているからです。払わずに流す。追わず払わず。見聞きしたものに引っかからない。
 
庵中(あんちゅう)には見ず庭前(ていぜん)の物
家の中では、外の物は見えない。
一度庭先のものに成りきって無くなる。この世界に何も無い、無いということも無いところまで行く。これが前回の人も牛も忘れた一円相です。
 
水は自ら茫茫(ぼうぼう)花は自ら紅なり
水は流れ、花は紅である。
そこに尻をすえずに、この世界に還ったところです。水は流れて、花は紅。同じ世界でも、この世界が自分です。