十牛図 第六

語録提唱

十牛図 第六

2019-07-30

第六 騎牛帰家
 

干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み、得失還(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
身を牛上に横たえ、目に雲霄(うんしょう)を視る。呼喚(こかん)すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

牛に騎って迤邐(いり)として家に還らんと欲す
羌(きょう)笛(てき)声声(せいせい)晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知音何ぞ必ずしも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
 
 
干戈已に罷み、得失還た空ず。
分別心との戦いも終わった、もう牛を捕まえるの逃がすのということも忘れた。
私たちは修行で一度は空の世界に、無の世界に行かなければならない。そこには世界も無い、自分もない、何も無い、無いということも無い。しかし、その悟りに尻すえていてはいけない。この世界に還ってくる。空を見る前とは違うけれども、この世界に還らなければいけない。一度、空を見て還った世界は、世界でないものを世界という世界です。
 
樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。
樵は歌い、村の子供は笛を吹く。
実にのんびりしたものです。もう悟りも迷いもない。有るも無いもない。生死も、善悪も、自他もない。
 
身を牛上に横たえ、目に雲霄を視る。
牛の背中に横たわり、そこには青空だけが見える。
後は牛が家まで連れて帰ってくれます。本分の家郷まで。
 
呼喚すれども回らず、撈籠すれども住まらず。
呼び戻す事も、とどめる事もできない。
臨済は言っています。途中にあって家舎を離れず。修行途中であるが、そこが本分の故郷である。これは分かりますね。衆生本来仏ですから。しかし、家舎を離れて、途中にあらず。本分にもいない。途中にもいない。悟りの世界にも戻らない。そんなところに、留まっていない。もちろん道に迷ってもいない。天を飛ぶような境地です。
 

牛に騎って迤邐として家に還らんと欲す
牛の背中に乗ってぶらぶらと家に帰る。
もう一番苦しい修行も通り越しました。悟後の修行で苦労する事もない。
 
羌笛声声晩霞を送る
えびすの笛の音が聞こえ、夕雲はながれる。
後は牛の好きにさせればいい。故郷はすぐそこです。
 
一拍一歌限り無き意
拍子や歌にこもる深い情感。
何を見ても見たものと一体、何を聞いても音は自分。日常がすべて自他不二の境涯です。
 
知音何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん
分かる人には、何の言葉もいらない。
牛は好きな道を通りながら、道に迷う事はありません。危険な道も通りません。赤信号では止まります。無分別にありながらきちんと分別している。ここまで来れば、もはや言葉も概念を弄することもありません。