十牛図 第一

語録提唱

十牛図 第一

2019-04-2

第一 尋牛

尋牛


従来(じゅうらい)失せず、何ぞ追尋(ついじん)を用いん。背覚(はいかく)に由って以て疎(そ)と成り、向塵(こうじん)に在って遂に失す。家山漸(ようや)く遠く、岐路(きろ)俄(にわ)かに差(たが)う。得失熾然(しねん)として、是非鋒起す。


茫茫(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遥かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処無し
但(た)だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟ずることを
 
この牛というのは、悟りの象徴です。ある牛飼いを主人公にして、その牛飼いが悟りを深めてゆく段階を、十枚の絵で表わしています。それぞれに序文と頌が書かれています。
 

従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
この尋牛は初発心を表わしています。皆さんが始めて坐禅を組んでみようと思う。仏教とは何か、禪とは何か。そこを探し始めたところです。しかし皆さんは、本来何も失ってはいない。牛は、悟りは皆さんのところにある。なぜ今更求める必要が有るのか。皆さんは自覚の無い仏です。
『晴れてよし、曇りてもよし富士の山、もとの姿は、変わらざりけり』富士山は厳然とそこに有ります。ただ、皆さんの分別の雲によって見えないだけです。
  
背覚に由って以て疎と成り、向塵に在って遂に失す。
我々は悟りひとつだけ生まれ持ってきました。その悟りに背を向けるから曇りが生じて、塵の世界に悟りを見失ってしまう。
  
家山漸く遠く、岐路俄かに差う。
故郷はいよいよ遠くなり、分かれ道では方向を誤る。
坐禅の方向が、皆さん間違っています。何も考えまい、何も念が起きないようにしようと坐っている。それが間違いです。無念無想とは念が湧かない状態ではありません。。ただ、それに捉われることなく、念を清流のように流す。出た念を心の手で掴まない境地です。
  
得失熾然として、是非鋒起す。
失くしてもいないものを分別して求め、是非善悪などの相対的観念が次々と起こる。
最初から失っていない。それを探し回るから、分別で外に探し回るから、是非、善悪、有無、生死、主客などの相対性が次々起こる。
  

茫茫として草を撥い去って追尋す
はてしない草を払って、牛を求める。
今の皆さんの様子です。しかし牛は、向こう側にはいない。こちらに、自分にいる。牛に乗って牛を探しています。悟りを悟りが探しています。
  
水闊く山遥かにして路更に深し
川は広く、山は深く、道は遥かに遠い。
牛が遠くへ逃げてしまったと誤解している。
  
力尽き神疲れて覓むるに処無し
身心共に疲れ果てたが、どこを探しても牛の痕跡は無い。
求めるからです。求めなければ手元に有ります。求めているものが求められているそれです。悟りが悟りを求めている。仏が仏を探している。
  
但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずることを
ただ空しく楓の木に秋の蝉の声を聞くばかりである。
どこを探してもいない。探しているものが悟りだからです。牛を探しているのに、尻の下に牛がいます。初めから逃げてはいないんです。