信心銘 第十

語録提唱

信心銘 第十

2019-03-31

極小は大に同じ 境界を忘絶す
極大は小に同じ 辺表(へんぴょう)を見ず
有即ち是れ無 無即ち是れ有
若し是(かく)の如くならずんば 必ず守ることを須(もち)いざれ
一即一切 一切即一
但だ能く是の如くならば 何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん
信心不二 不二信心
言語道断 去来(こらい)今(こん)に非ず
 
極小は大に同じ 境界を忘絶す
小さな物も分別を離れれば天地と変わらず、大小の境目を忘れ去る。人間の分別によって心が分かれて、この天地が展開する。
横浜はとても分別ゴミにやかましい。燃えるゴミと燃えないゴミ、ビンとカン。分別、どちらも分けるという言葉です。有無を分ける、生死、主客、男女、上下、南北。これが分ける、分別です。この世は分別された相対世界です。一心が分別されて世界が現象します。
この小さな自分は世界と同じである。それが分別以前、主客未分での境涯です。
 
極大は小に同じ 辺表を見ず
この天地は小さな自分と同じである。どちらもその際が見えない。これも分別以前です。一度坐禅で以って分別を超えて世界を見る。自分が、何かを、見ている、のは分別です。それ以前。
数が数を数える。主観も客観もない。無字がムーと成っている。自分が自分を自分している。やはり主客がない。
 
有即ち是れ無 無即ち是れ有
世界の存在は、有無の相対に分かれています。しかし、有るは無い、無いは有る。分かれる以前は同じものです。一つのコインの表が有、裏が無。表が生、裏が死。元は一枚のコイン、一心です。
 
若し是の如くならずんば 必ず守ることを須いざれ
若しこういう境地でなければ、そこはスッと通り過ぎる。
 
一即一切 一切即一
一が一切であり、一切が一である。すべて心です。心が世界として展開している。これを元の心、一心に戻す。これが坐禅です。
 
但だ能く是の如くならば 何ぞ不畢を慮らん
そういう境地に到ったならば、一が一切であり、一切が一である。有るは無い、無いは有ると、そういう境地に到ったならば、もはや足りない事はない。仏教は卒業です。
 
信心不二 不二信心
心は相対性を離れている。不二である相対性を超えたものが心である。
 
言語道断 去来今に非ず
言語の道は断たれた。この心には言語や概念、思い、考えではたどり着けない。この心には成るしかない。見ずに成る。振り返らずに成る。
我々は、念、思い以前のところでは、すでにそうなっている。自覚の無い仏です。
過去はもう過ぎました。未来はまだ来ない。現在は流れている。どこにも心は留まらない。
達磨さん以来、この心というのが禪のテーマです。直指人心、人の心を真っ直ぐに指し示す。そして見性に導く。二代目の恵可は、安心を求めた。しかし不可得。心はどこにも無いが、こう自由に働いている。見える、聞こえる、思える。これが無心です。
坐禅を組んで無心になるのではなく、すでに我々は無心です。自覚の無い仏です。すでに悟っている。
そして、三祖は信心銘を書いて心を伝えた。心に成ってください。今回で信心銘を終わります。