信心銘 第一

語録提唱

信心銘 第一

2018-10-9

三祖僧璨禅師
信心銘
至(し)道(どう)無難(ぶなん) 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う
但(た)だ憎愛莫(な)ければ 洞(とう)然(ねん)として明白なり
毫釐(ごうり)も差有れば 天地懸(はる)かに隔たる
現前を得んと欲せば 順逆を存すること莫かれ
違順相争う 是を心病と為す
玄(げん)旨(し)を識らざれば 徒(いたず)らに念静に労す
円(まどか)なること大虚に同じ 欠くること無く餘ること無し
良(まこと)に取捨に由る 所以(ゆえ)に不如なり

先月まで提唱した伝心法要も、この信心銘も『心』を中心においています。達磨大師がインドから中国へ来たときに、直指人心、見性成仏が旗印だった。まっすぐ心を指さして見性させる。達磨大師の初めから心が中心になっている。
二祖慧可大師が始めて達磨大師のもとを訪れたときも、安心がテーマになっている。慧可は安心のため心を探したが見つからない。それはそうです、探しているそれが心ですから。探さなければ、今ここに、このように自由に働いている。禅の最初期から、心は問題の中心になっていたようです。

至道無難 唯だ揀択を嫌う
悟りの道は簡単である。なぜなら皆さんは既に悟っているから。ただ、それに気づかないでいるだけです。皆さんは、自覚のない仏です。
ただ選り好みを嫌う。表裏、上下、有無、生死、損得、これを揀択といいます。もともと一つのものが分かれしまう。それを元の一つに戻すのが坐禅です。もと一つのものが分別心により分かれる。揀択とは分別心のことです。それにより二つに分かれてしまう。二辺、あるいは二見です。
悟りの道は簡単である。ただ分別心をなくせばいい。

但だ憎愛莫ければ 洞然として明白なり
好き嫌い、憎い可愛い、こういう分別心がなければ、カラリと明白である。はっきりしている。

毫釐も差有れば 天地懸かに隔たる
ただ髪の毛一本の隙間で、すぐに相対に分かれてしまう。分別心の働きです。
もう一度言いますが、皆さんは自覚のない仏です。そこを自覚する。そうすると天地と自分とが一体になります。一体になると無くなります。この世界何も無い、無いということも無い。そのためには、分別をやめなければならない。二見をやめる。

現前を得んと欲せば 順逆を存すること莫かれ
悟りを自覚したければ、随ったり逆らったりの揀択、分別をやめる。

違順相争う 是を心病と為す
違う、正しい。これも二見です。相対性の中にいる、分別の中にいるのが病であると。
もし心が分別により二つに分かれてしまった時、二見に分裂した時、どのようにして元の一つに返すか。ここが禅の急所です。
よく仏教では中道と言います。これは二見に分かれたものの真ん中ではありません。いろいろな本などで中道を調べても、たぶん分からない。著者が分かっていない。たとえば善と悪が分かれてしまった。善悪の中道になるためには、どちらかに徹する。善に徹するか、悪に徹する。どちらかに成りきる。
右と左に分かれたら、左右のどちらかに徹する。そこで初めて中道が分かる。心が現れる。禅と倫理の大きな違いがここにはある。
生死も有無も一心が分別されたものです。元に返るには生に徹し、死に徹し、有に成りきり、無に成りきる。
我々は煩悩のかたまりです。欲しい、惜しい、憎い、可愛い。この煩悩を通してしか心を知る事は出来ない。欲しいに成りきるんです。自分がいるようではいけない。欲しいものがあるようではいけない。ただそこには、欲しいーだけがある。ここに徹して初めて心が現れる。
分かれる以前に戻るには,両辺の一つに成りきることです。

玄旨を識らざれば 徒らに念静に労す
ここが分からなければ、無駄に心を静めようとするだろう。
ここは交差点にあるお寺ですから車の音がする。坐禅中にうるさいと思った方、自分と音を分けている。三昧に入り自分なくゴーッと成る。あれは自分の音です、自分が鳴っている。本来一体です。
それに気づかないので、念静、坐禅で静かになろうとつまらない事をしている。静めようとしない。手を出さない。聞こえたら聞こえたまま、見たら見たまま、感じたら感じたままで。

円なること大虚に同じ 欠くること無く餘ること無し
この心の本体は、大宇宙と同じようにまどかである。小さく言えば、この目の前の空間。これと同じで何も足りないものはない。余分なものもない。邪魔だとどかす事も出来ない。もうひとつ欲しいと思っても、この空間は足す事も出来ない。だから放っておく。何もしなければまどかである。

良に取捨に由る 所以に不如なり
取ると捨てる、二見です、分別です。そのため、こう相対的世界が現象する。そこが間違えなのだと。
皆さんが行うべきはひとつ。両辺に分かれたら片方に徹底する。成りきる。それだけです。