伝心法要 第四十二

語録提唱

伝心法要 第四十二

2018-04-19

如今末法向去(このかた)、多く是れ禅道を学ぶ者は皆一切の声色に著す。何ぞ我が心に与らざる。心を虚空に同じくし去り、枯木石頭の如くにし去り、寒灰死火の如くにし去らば,方(まさ)に少分の相応あらん。若し是の如くならずんば、他日尽く閻老子に汝を拷せらるる在り。汝但だ有無の諸法を却離して、心は日輪の常に虚空に在って、光明自然に、照らさずして而も照らすが如くならば、是れ省力底の事ならずや。此に到るの時は棲泊の処無し、即ち是れ諸仏の行を行ずるなり。便ち是れ応無所住(おうむしょじゅう)、而生其心(にしょうごしん)なり。

如今末法向去、多く是れ禅道を学ぶ者は皆一切の声色に著す。
時代は末法に向かっている。禅を学ぶ者、ご自分の事ですよ、皆さんは見えるもの聞こえるものに囚われている。執着している。
何ぞ我が心に与らざる。
何故自心を問題にしないのか。
表のバイクの音、あれは自分の音です。自己がうなっている。外に聞かない。自己に取って返す。
心を虚空に同じくし去り、枯木石頭の如くにし去り、寒灰死火の如くにし去らば,方(まさ)に少分の相応あらん。
心を虚空のようにカラーッとさせて、枯木や石のようにする。冷え切った灰、消えた火のようにする。
ここで勘違いしがちなのは、何も無いのが無心と思いがちです。確かにそうなのですが、心を無にする方向を皆さんの多くが勘違いしている。いろいろな思いはあっていいんです。暑い時は暑い、寒い時は寒い。
その念に囚われないのが、思いを掴んだ心の手を放すのが無心です。
若し是の如くならずんば、他日尽く閻老子に汝を拷せらるる在り。
こうならなければ、いずれ閻魔様に苦しめられるぞと。
汝但だ有無の諸法を却離して、
ただ分別にわたることを離れる。生死、有無の相関性を離れる。
心は日輪の常に虚空に在って、光明自然に、照らさずして而も照らすが如くならば、
心が太陽の如くあり、己が光明に成り、照らそうと思わなくても、自然に照らしている。
是れ省力底の事ならずや。
何の苦労もない。力を省ける。
此に到るの時は棲泊の処無し、
自心が本当に分かれば、成りきれば、止まるところがない。執着するところがない。
即ち是れ諸仏の行を行ずるなり。
仏の行為である。何もしないのが仏の行です。いらっしゃるだけで光り輝いている。そこに手をつけない。
放っておく。仏の行を行ずる。今日初心者指導で言った、追わず払わず、これが諸仏の行です。
便ち是れ応無所住而生其心なり。
これは金剛経の言葉です。まさに住する処無くして、しかもその心を生ずべし。何処をどう探しても心はない。何処にも住まらないからです。或いは絶対の主観だからです。しかし、このように自由に働いている。見える、聞こえる、考えられる。心は何処のも見つからないが、自由に働いている。
どうしても見つからない。だから成る。探さずに成る。