伝心法要 第三十七

語録提唱

伝心法要 第三十七

2018-04-12

云く、若し心を相伝せば、云(いか)何(ん)ぞ心亦無しと言わん。師云く、一法を得ざるを名づけて心を伝うと為す。若し此の心を了ぜば、即ち是れ心無く法無し。云く、若し心無く法無くんば、云何が伝と名づけん。師云く、汝心を伝うと道うを聞いて、将に得べきものありと謂(おも)えり。所以(ゆえ)に祖師云く、心性を認得する時、不思議と説くべし、了了として所得無し、得る時は知ると説かずと。此の事若し汝に得せしめんとするも何ぞ堪えん。

云く、若し心を相伝せば、云(いか)何(ん)ぞ心亦無しと言わん。
前回の最後で、心を以って心を伝う、とあった続きです。心を以って心に伝える。
もし心を相伝するのであれば、何故心は無いというのですか。黄檗禅師は心は結局得るところはないと仰っている。心は無所得です。
師云く、一法を得ざるを名づけて心を伝うと為す。
悟るのはここにいる皆さんです。私からは何も渡すものはありません。
ここは通りに面した寺ですから、今の坐禅の間二回も救急車が通った。ウーウーウーと音がすると皆さんころっとウーウーウーと成ってしまう。あの音は皆さんの音です。ご自分が鳴っている。これが一法を得ざるです。得るのではなく成るのです。特別なことは何もない。こう見ればこうある。こう聞けばこうある。
皆さん様々な問題を抱えている。その真ん中ですでに救われています。そこに気がつくための坐禅です。何も得るものはありません。それが悟りであり心です。これが心を以って心を伝うということの本当の意味です。
若し此の心を了ぜば、即ち是れ心無く法無し。
ここのところの心が分かれば、心もなく教えもない。
云く、若し心無く法無くんば、云何が伝と名づけん。
もし心も教えもないのであれば、あなたは何を伝えているのですか。
師云く、汝心を伝うと道うを聞いて、将に得べきものありと謂えり。
君は心を伝えると聞いて何かあると思っている。
じれったいですね。成りきったところ、それが悟りであり心です。向こうには何もない。
所以に祖師云く、心性を認得する時、不思議と説くべし、
だから祖師方は、この心が本当に分かるときは、不思議と説いたのである。
不思議、思議せず、考えない。考えない事を不思議と言います。あるいは不可思議、考えるな。この心が本当に分かると言いましたが、言葉の難しいところで、本来分からないんです。分別できないんです。だから不思議、考えない。考えずに成る。
了了として所得無し、得る時は知ると説かずと。
何も得るものはない。この心を無心と言ってもいい。それは知ることではない。知るということは、知るものと知られるものが、分かれている。知るものが対象化されている。だからそれに成るんです。同じ事をずっと言っている。
少し理屈っぽいですが、西洋哲学では物それ自体を我々は知ることは出来ないとある。私がまだ修行中にある老師に言われました。知ることは出来ないから成るんだと。知ることなく成る。
此の事若し汝に得せしめんとするも何ぞ堪えん。
君には無理かなあと、禅師の苛立ちが伝わるようです。