伝心法要 第三十五

語録提唱

伝心法要 第三十五

2018-04-6

祖師西来して直に一切人の全体是れ仏なりと指(しめ)す。汝今識らずして凡を執し聖を執し、外に向かって馳聘(ちへい)(馬偏)して還って自ら心に迷う。所以に汝に向かって道う、即心是仏と。一念の情生ずれば即ち異趣に堕す。無始より巳来、今日に異ならず。異法あること無きが故に成等正覚と名づく。云く、和尚の言う所の即とは是何の道理ぞ。師云く、什麼の道理をか覓むる。纔に道理あらば便(すな)即(わ)ち心異なる。汝若し覓めずんば何の処にか異なるあらん。云く、既に是れ異ならずんば、何ぞ更に即と説くことを用いん。師云く、汝若し凡聖を認めずんば、阿(だ)誰(れ)か汝に向かって即と道わん。即若し即ならずんば、心亦心ならず。可(こ)の中、心と即と倶に忘ぜば、阿(なん)汝(じ)便ち何の処に向かってか覓め去らんと擬すや。

祖師西来して直に一切人の全体是れ仏なりと指す。
なかなか師弟のかみ合わない問答が続いています。これは弟子の裴休が凡聖に囚われているためです。そこで達磨大師を引き合いに出して、祖師というのは達磨さんです。達磨大師は、君の全てが仏だと言っているではないかと。迷いの心も清らかな心もすべて仏である。
汝今識らずして凡を執し聖を執し、外に向かって馳聘して還って自ら心に迷う。
君はそれを知らず、外に向かって駆けずりまわり、そのためかえって心が分からなくなっている。迷っている。
所以に汝に向かって道う、即心是仏と。
そのままの心が仏である。裴休は凡心ではなく、聖心が仏ではないのか、と凡聖の分別から離れられない。だから達磨大師の言葉を持ってきて、君の全体が、凡心も聖心も仏である。
一念の情生ずれば即ち異趣に堕す。
念が起これば違うところに落ちる。
無始より巳来、今日に異ならず。
この心と言うのは皆さんの心です。見たり聞いたり考えたりする、その心ですが、その心は過去無量劫からかわらぬ心でもあります。無始より変わらない心が、今ここに、皆さんの心として働いています。
自分の心も釈迦、達磨の心も同じです。自分の無とお釈迦様の無は同じです。自分の心とお釈迦様の心は同じです。
異法あること無きが故に成等正覚と名づく。
違いがないから成等正覚と名づく。
云く、和尚の言う所の即とは是何の道理ぞ。
和尚の言う所のそのままと言うのはどういう道理ですか。
師云く、什麼の道理をか覓むる。
そこで何故道理、理屈を求めるのか。
纔に道理あらば便即ち心異なる。
そこであれこれ考えてしまうから、心というものがつかめない。
汝若し覓めずんば何の処にか異なるあらん。
求めなければ即です。そのままです。求めて対象にするから、向こうに置くから即にならない。
云く、既に是れ異ならずんば、何ぞ更に即と説くことを用いん。
何の違いもないのであれば、即と言うこともないではないか。即心是れ仏などと言わずに、心是れ仏でいいのではありませんか。
師云く、汝若し凡聖を認めずんば、阿誰か汝に向かって即と道わん。
君がいつまでも凡聖に囚われているから、あえて即と言うのだ。そのままと、あえて言うのだ。
自分のこととしてとらえてください。そのままの心が心です。よい事を考えたり悪いことを考えたり。くだらない事を考えたり立派なことを考えたり。それらをひっくるめて心です。その心がそのまま仏です。
即若し即ならずんば、心亦心ならず。
本来はそんなことは言う必要もない。即が即でなければ、心も心ではない。
可の中、心と即と倶に忘ぜば、
心だの即だのそういうことを忘れ去ってしまえば、
阿汝便ち何の処に向かってか覓め去らんと擬すや。
いまさら何を求めようとするのか。
求める事を止めてください。そのままで皆さんは仏です。救われた後の姿です。自分は既に仏なのに、仏をあえて外に求める。無駄な事です。成仏。仏に成る。そのままの自分に成り切る。それが、即心是仏です。