伝心法要 第三十三

語録提唱

伝心法要 第三十三

2018-04-3

三乗の教網は祇是れ応機の薬、随宜の所説、時に臨んで施設して各各同じからざるのみ。但、能く了知せば、即ち惑せられず。第一に一機一教の辺に於いて文を守って解を作すことを得ざれ。何を以ってか此の如くなる。実に定法の如来の説くべき有ること無ければなり。我が此の宗門は此の事を論ぜず。但、息心を知れば即ち休す。更に前を思い後ろを慮かることを用いざれ。

三乗の教網は祇是れ応機の薬、
三乗の教えは薬のようなものである。仏は一つの事を説きませんでした。ある境地は伝えようとしていますが、説き方は応病与薬、対機説法です。有に囚われた者には無を説き、無に囚われた者には有を説く。

随宜の所説、時に臨んで施設して各各同じからざるのみ。
人を見て法を説いている。だからその説に矛盾も出てくる。同じ質問にある時は有と答え,ある時は無と答えている。

但、能く了知せば、即ち惑せられず。
本当のところが判れば、一目瞭然である。

第一に一機一教の辺に於いて文を守って解を作すことを得ざれ。
一番大切なことは考えで判断しない事、分別をやめる事である。有無、生死、善悪、自他、主客。これらを分けない。
今日は台風の雨が降っている。この雨音を自分が聞いているのではない。それでは主客が分かれてしまう。この雨音は皆さんがなっている。皆さんが降っている。それを考えない、分別しない。

何を以ってか此の如くなる。
どうしてそうなるのか。

実に定法の如来の説くべき有ること無ければなり。
お釈迦様は決まった事を説いていません。お釈迦様はある体験的境地を伝えたかった。教説を伝えたいわけではない、考え方を教えたかったのではなかった。
スッタニパータ、ブッダの言葉の中でも釈尊は繰り返し、私にはこのことを説くと言うことはない、と仰っている。自分には教えるべきものはないんだ。教義を持っていないんだ。ただ執着を執着と知って、囚われから離れることを教えていると。
自分が死んだ後、霊魂は残りますか消え去りますか、という質問を釈尊は無視した。これは有無に対する分別です、執着です。死後に対する分別です。生死に対する念慮です。

我が此の宗門は此の事を論ぜず。
禅宗では、有無、生死、善悪など相対的なことは教えない。

但、息心を知れば即ち休す。
考えることを止めれば、分別を止めれば、そしてただ無心になれば良い。

更に前を思い後ろを慮かることを用いざれ。
釈尊はそこで教えを説いています