伝心法要 第三十二

語録提唱

伝心法要 第三十二

2018-04-3

従前の所有一切の解処尽く須らく併劫して空ならしむべし。更に分別なくんば即ち是れ空如来蔵なり。如来蔵は更に纖塵の有るべき無し。即ち是れ有を破るの法王世間に出現せるなり。亦云く、我然燈仏の所に於いて少法の得べきなしと。此語、祇、汝が情量知解を空ぜんが為なり。但、表裏を銷融し情尽きて都て依執なき、是れ無事の人なり。

従前の所有一切の解処尽く須らく併劫して空ならしむべし。
我々は悟りであるとか、見性であるとか、そういうものを求めて坐っていますが、どうしても頭で考えてしまう。まず第一に考えて判ろうとすることを止めてください。どんな素晴らしい考えであっても、それは考え方にすぎない。頭を空っぽにして何も考えない。考えないと言う事にも執着しない。
今日、初心の方に追わず払わずと言いました。考える、そして考えないと言う事にも囚われないと言う事です。

更に分別なくんば即ち是れ空如来蔵なり。
今分別ゴミというのがやかましい。燃えるゴミと燃えないゴミとを分ける。ビンと缶とを分ける。分別と言うのはどちらも「わける」という文字です。
今は分別と言うものを良い言葉として使っていますが、元来の仏教語では悪い言葉です。どう分別し、どう分けるか。善と悪を分け、生と死を分け、損と得、有ると無い、上と下、北と南。全てを分別してしまう。
今日、初めての方、ここは来客のたびセンサーがピンポンなる。外では車の音がする。と思っている。自分と世界を分けている。今聞こえる音、あれは皆さんが聞いているわけではない。あれは、自分が鳴っている。主観と客観を分けない。元の一つに還す。善悪、有無、生死、損得。すべて元の一つに還す。これが坐禅といいう行為です。
分別が無ければ、分けなければ、そこは空であり如来蔵である。選挙カーがひどくやかましい。やかましいと思うのが間違い。あれは皆さんの響きです。

如来蔵は更に纖塵の有るべき無し。
如来蔵とは皆さんのことです。この煩悩まみれの自分には塵一つない。煩悩がそのまま菩提です。

即ち是れ有を破るの法王世間に出現せるなり。
ここでは有を破ると書いてありますが、有も破り無も破る。有も無も破ったところ、それが空です。それが如来蔵です。それが皆さんです。皆さんは有るでもなければ無いでもない。生でも死でもない。皆さんは死んでもその本質は死なない。これを心と言います。霊魂とかそんなつまらない話ではないですよ。仏教では霊魂は認めません。霊魂が有る無いから空へ。皆さんは空です。空は死ぬ事がありません。生まれる事もない。皆さんは生まれたと思っている。しかし生まれてすらいない。生まれてすらいないものが死ぬはずもない。心経の不生不滅です。

亦云く、我然燈仏の所に於いて少法の得べきなしと。
悟りを開くと言う事は何かを得るということではない。何かを得るということは、向こうにあるものをこちらに持って来るということです。向こうとこちらが分別されている。分かれている。
元来一つのものを分別の頭が分けてしまう。分別、判断、認識、念慮。これが分けてしまう。

此語、祇、汝が情量知解を空ぜんが為なり。
これは皆さんを分別や、判断、認識などから離すためにあえて語った言葉です。

但、表裏を銷融し情尽きて都て依執なき、是れ無事の人なり。
表があって裏があると思うでしょうが、表だけで裏のない紙はない。同じように生があって死がある。有があって無がある。全て相対性のもとにある。それを元のひとつに、絶対のところに還す。これが坐禅です。相対性を溶かして消して、囚われない。これが無事の人。事もなし。
何も求める必要が無い。もう皆さんの中にある。無事の人です。