伝心法要 第三十

語録提唱

伝心法要 第三十

2018-03-3

身心自然に道に達し心を識って本源に達するが故に、号して沙門と為す。沙門の果とは慮を息めて成ず。学に従って得るにあらず。汝如今心を将って心を求め、他の家舎に傍(よ)って、祇、学取せんと擬す。什麼(なん)の得る時かあらん。古人は心利(さと)くして纔に一言を聞いて便乃(すなわ)ち絶学す。所以に呼んで絶学無為の閑道人と作す。

身心自然に道に達し心を識って本源に達するが故に。
いつも言っています様に、我々はすでに悟りのど真ん中にいます。救われた後の姿です。ただ、なかなかそれが分からない。悟っている自分というのに気が付かない。この体と心をもって、自然に道に達し。この自然にというのが大切なところです。これから座禅を組んで心を無にして悟りに達するわけではありません。もともと悟っている自分に気が付く。あえてそれを悟りと名付けます。姿勢や呼吸や心、その整え方を初心の方には説明しましたが、あえてそうする必要もなく我々は、我々の心身は整っています。言ってみれば、このままでいい。ただ、座禅を組んでいますと、自然にすぅっとある境地に達して、そして、あっ、自分はもともと、というところに気が付きます。身心自然に道に達し心を識って本源に達する、そういうことです。

内外打成一片(ないげだじょういっぺん)、という言葉があります。見る、聞く、考える自分とこの世界が一つになります。内外打成一片。先ほどの下でピンポン、と来客の音がしました。あれが自分が鳴っている。皆さんが鳴っています。外の音、外に景色、外のにおい、それがすべて自分の色であり自分の音であり自分のにおいになります。自然にそうなります。

本源に達するが故に、号して沙門と為す。
沙門というのは我々坊さんのことですが、ここでは修行している皆さんのことです。座禅を組んで、自然に内外打成一片になってすぅっと三昧の境地に至る。だから修行者と名付けるのである。

沙門の果とは慮を息めて成ず。
沙門の果、悟りです。自分が本来悟っていたことに気づく。皆さんが悟りを開くためには慮を息めて成ず。慮を息めるというのは、考えないということです。一生懸命仏教学を学んで、一生懸命考えて、その果てに悟りがあるわけではない。かえって邪魔になります。ですから念慮とか、考えとか、思いとか、そういうのをやめて成ずと。我々の悟りはどれだけ一生懸命それを見ようと思っても、どうしても見ることも聞くことも考えることもできない。だから成るんです。成る。成ず。
成仏といいます。仏に成る。この悟りの境地。それに成るんです。それを見るわけではない。発見するわけではない。見ることも考えることもできないけれど、それに成ることはできる。沙門の果とは慮を息めて成ず。皆さんの悟りは、思いや考え方をやめたときに成ず。成りきる。

学に従って得るにあらず。
学問でそこには全く届きません。

汝如今心を将って心を求め。
このテキストを伝心法要と言います。心とは何ぞや、というのがテーマの本です。この心というのは言ってみれば、自分と世界が一つになったところ、それを心と名付けます。自分とこの世界が同じものだということが、特に初心の方はわからないと思いますが、この世界がそのまま自分です。世界があって、それを私が見ている、聞いている、考えているわけではありません。この世界が自分です。この世界が自分であるところを心と名付けます。悟りの境地、この心はどうしても見ることも考えることもできないけれど、その心になることはできる。今、悟りとは何であろう、心とは何であろうかと考えているそれが心です。その心で今見ている。その心で聞いている。

他の家舎に傍って、祇、学取せんと擬す。
これは唐の時代の中国の総理大臣が黄檗禅師にいろいろ質問をして教えを乞うている本です。あなたは、私にいろいろ訪ねてそれを分かろうとしている。学取せんと擬す。

什麼の得る時かあらん。
そんなことではいつまでたってもダメです。

古人は心利くして纔に一言を聞いて便乃ち絶学す。
お釈迦様の時代、お釈迦様に一言言われただけではっと気づかれて悟りを開かれた方がたくさんいらした。自分と世界は本来が一つのものの裏表であると。そこで学問を、考えることをやめます。絶学す、と。考えることをやめます、慮をやめます、念をやめます、無心になります。

所以に呼んで絶学無為の閑道人と作す。
学を絶って、何にも考えん、何にも思わん、無為、何も為すことがない。今更何か修行らしいことをすることもない。絶学無為の閑道人、ひまな修行者、底が抜けた修行者。
今日初心の方には追わず・払わずと言いました。何が出てきても、かまいません。どんなしょうもない思いが出てきても構いません。ただし、追わず・払わずです。それはそのままそれです。こう見たとき、聞いたとき、念を働かさなければ、慮をやめれば、それはすっとそれに収まります。自分が自分に収まります。絶学無為の閑道人。ここを分かれば心というものに到ることが出来ます。
もう一度言いますが、どう探しても、内側にも、外のこの世界にも心というものは、自分の心というものは見つけることが出来ない。でも、今私の声を聞いている、テキストが見える。住職は何を言っているんだろうと考えることが出来る。それが心の働きです。どこにもないけれど生き生きと働いているそれ。それを見ようとせず、学ぼうとせず、それに成る。見ずに、成る。そういうつもりで座禅を組んでみてください。

今日はここまでといたします。