伝心法要 第二十八

語録提唱

伝心法要 第二十八

2018-01-23

云く、既に是れ問処に自ら顛倒を生ぜば、和尚の答処は如何。師云く、汝且く物を将って面を照らして看よ。他人を管すること莫れ。又云く、祇、箇の癡狗の如くに相似たり。物の動ずる処を見て便ち吠ゆ。風草木を吹くも也(ま)た別ならず。又云く、我が此の禅宗は上より相承して巳来(このかた)、曾て人をして知を求め解を求めしめず。祇、学道と云うすら早く是れ接引の詩なり。然して道も亦学すべからず。情に学解を存せば、却って迷道となる。

云く、既に是れ問処に自ら顛倒を生ぜば、和尚の答処は如何。
私の質問の仕方が間違えているのなら、和尚の答え方はどうなのでしょうか。
師云く、汝且く物を将って面を照らして看よ。
あなたは鏡で自分の顔を写してごらん。
他人を管すること莫れ。
私のことはどうでも良い。
この伝心法要は、何か禅師が質問者の答えをはぐらかして見える。ここもそうですが、そうではない。この伝心法要は、坐禅の急所以外のことは説いていません。今日初心指導で皆さんに「追わず,払わず」「取らず、捨てず」と申し上げました。初心者の念に対する心構えですか、これが本当に出来たら、禅は卒業と言ってもいい。「追わず,払わず」そこに持って行くため、様々に禅師は説いてくださる。あるいははぐらかして見えるかもしれませんが、ここは真っ直ぐに見てください。
又云く、祇、箇の癡狗の如くに相似たり。物の動ずる処を見て便ち吠ゆ。風草木を吹くも也(ま)た別ならず。
君は丁度、狂った犬の様である。風に草木が揺れても吠え立てる。
ここまでは余計な事に囚われずに、禅の本質に向かって真っ直ぐ進みなさい、といったところです。
又云く、我が此の禅宗は上より相承して巳来(このかた)、曾て人をして知を求め解を求めしめず。
ここが大切なところです。われわれはどうしても頭で解決を求めてしまう。皆さんは既に出来上がった存在です。すでに悟っている存在です。ただ、妄想の雲のためその光が遮られている。妄想を払えばそれでいい。
その妄想の一番大きなものが人間の「考え」です。
ああのこうのと思慮にわたり、判断したり解釈したり、そういったことを禅宗は求めていない。
祇、学道と云うすら早く是れ接引の詩なり。
道を学ぶということすら方便の言葉である。元来学ぶべき事は何もありません。初めて坐禅を組んだ方は、坐禅により無心や、無念無想の境地に到ろうと思われているかも知れませんが、それは既に自分にあります。
今外で車の音がしている。聞くまいとしても聞こえてしまう。これは皆さんが無心である証拠です
然して道も亦学すべからず。情に学解を存せば、却って迷道となる。
われわれの心に、分別・判断・解釈と言ったものが生ずれば、それが迷いとなってしまう。何も学ぶものはない。
何かを悟る、何かを知るという行為は、向こうにあるものをこっちに引き寄せる事です。そうじゃない、既にここに有る。ただそれが迷いの雲に隠されている。本来こうこうと照らされている皆さんの仏心、仏性が雲に覆われている。その雲を払うための坐禅です。ですから坐禅中にああのこうのの考えは全く必要ありません。
坐禅を組んでいるといろいろな事がよぎります。立派なことからしょうもないことまで、いろいろでてきます。今も外で音が聞こえる。さて、聞いているのは何者でしょうか。今私の声を聞いているそれは何者でしょうか。
何が見ているのか。何が聞いているのか。何が考えているのか。いくら考えてもわからない事、考えてわかることは外に有ることです。自分と外が一つになったところを三昧と言います。判りやすく言うと成りきった境地です。その境地は見る事も感じる事も出来ません。だから「成る」
われわれは自分の寝姿を見る事はできない。しかし寝る事は出来る。「見ずに成る」
坐禅中は成りきってください。数息観を行っている人は数に成り切る。公案をもらっている人は公案に成り切る。そうすると今私の声を聞いているものが判ります。