伝心法要 第二十七則

語録提唱

伝心法要 第二十七則

2017-12-4

問う、纔(わずか)に和尚の処に向かって言を発すれば、什麼(なん)としてか便ち話堕(わだ)と道うや。師云く、汝自ら是れ語を解せざるなり。人に什麼の堕負(だふ)か有らん。
問う、向来如(そ)許多(こばく)の言説は皆是れ抵敵の語なり、都て未だ曾て実法の人に指示するものあらず。師云く、実法に顛倒なし、汝今問処に自ら顛倒を生ず。什麼の実法をか覓めん。

問う、纔に和尚の処に向かって言を発すれば、什麼としてか便ち話堕と道うや。
私があなたに何の質問をしても、なぜ和尚は話堕、言葉に落ちたと言うのですか?
禅の本質に関わるような質問をしても禅師は話堕せり、また理屈に落ちた、言葉に落ちたと答えるのは何故でしょうか。

師云く、汝自ら是れ語を解せざるなり。人に什麼の堕負か有らん。
君は本当のところが判っていない。私が君を落としているのではなく、自ら落ちているのだ。
人生にはいろいろな問題があります。その問題の解決のため我々は坐っているのですが、私に答えを求めたとき、それは話堕です。理屈に、言葉に、概念に落ちている。本当のところは頭では判りません。坐禅を組むという行為は頭の働きから離れた行為です。
生死、善悪、損得、有る無し。世の中には様々な問題があります。
自分の有無さえ突き詰めればわからない。般若心経では不生不滅と説いています。自分に当てはめれば、これは生まれてすらいない、死ぬことなどありえない。
話堕せり。考えたことはすべて話堕しています。生死の解決が仏教の眼目です。その解決の仕方が、この自分は滅することはない、そもそも生まれてすらいない、と。
皆さんはすでにそうなっている。気がつかないだけ。すでに悟っている、救われた後の姿です。しかし頭が邪魔をして気がつかない。
たとえば、この目の前の空間、これは有るのか無いのか。邪魔だとしてもどかせない、増やすこともできない。これはいつ生まれたのか、いつ滅するのか、善か悪か。すべて判らない。自分も同じことです。有るのか無いのか判らない、生か死かも判らない、善でもなければ悪でもない。
今から坐禅を組んでそうなるわけではない。そでにそうなっている。坐禅というのは、自分がそうなっていることを確認する行為です。すでに自分は悟っている。
それをこのテキストでは「心」と言う一文字に収斂させています。

問う、向来如許多の言説は皆是れ抵敵の語なり、都て未だ曾て実法の人に指示するものあらず。
言葉にすれば全て誤りであれば、今までの和尚の説法と矛盾している。和尚の説法も相対性に落ちた、話堕した言説ではないでしょうか。今まで本当のところを説いていないのではありませんか。
まあ、そのとおりです。本当のところは説けない。雪を見たことの無い人には、言葉に説明ではなく、触ってもらえば直接わかってもらえる。実法も同じです。こちらから示すことはできない、皆さん自ら知るのみ。

師云く、実法に顛倒なし、汝今問処に自ら顛倒を生ず。什麼の実法をか覓めん。
夢に見たこと、夢で死んだ私は本当に死んでのでしょうかという問いは、問い自体に意味が無い。顛倒というのはそういったことです。頓珍漢、言葉の遊び。
本当のことは顛倒ではない。言葉に出来ない。有るといえば誤り、無いといっても誤りです。皆さんが死んで魂が残りますか虚無に消えますか。どちらも誤りです。ですから、こういった質問にお釈迦様は答えなかった。仏教と言うと魂の輪廻転生を説いた教えだという誤解が、誤解がまかり通っている。
魂は霊魂は有るのか無いのか。有るといっても顛倒、無いといっても顛倒です。
私は今生きているか死んでいるか。どちらを答えても誤り。
質問がそもそも間違いです。君はいったい何を求めているのか。求めるという行為は向こうに答えをおく行為です。答えは向こうには無い、かといって内側に有るわけでもない。さてどこに有るか。善悪,生死、有無、内外。同じです。求めなければそれでいいんです。求めず今ここに納まる。そうすれば自ずから解決をみます。自分がどこから来たのか、自分は何か、そしてどこに去り行くのか。考えず求めず、今ここの自分に納まる。