伝心法要 第二十六

語録提唱

伝心法要 第二十六

2017-08-14

云く、是の如くならば、則ち渾(すべ)て断絶と成る、是れ無なるべからずんや。師云く、阿(だ)誰(れ)か他をして無ならしめん。他は是れ何(だ)誰(れ)ぞ、汝他を覓めんと擬すや。云く、既に覓むることを許さず、何が故ぞ又他を断ずること莫れと言うや。師云く、若し覓めずんば、便ち休む。即ち誰か汝をして断ぜしむ。汝目前の虚空を見んに作麼生(そもさん)か他を断ぜん。云く、此の法便ち虚空に同ずることを得べけんや、否や。師云く、虚空早晩(いつ)か汝に向かって同あり異ありと道うや。我暫く此の如く説くに、汝便ち者(しゃ)裏(り)に向かって解を生ず。云く、応に是れ人の与に解を生ぜざるべけんや。師云く、我曾て汝を障えず。要(かな)らず且つ解は情に属す。情生ずれば則ち智隔つ。云く、者裏に向かって情を生ずること莫くんば是なりや、否や。師云く、若し情を生ぜずんば、阿誰か是と道わん。

云く、是の如くならば、則ち渾(すべ)て断絶と成る、是れ無なるべからずんや。
これは弟子の問いです。もし仰る通りであるならば、全ては断絶となってしまいます。これは、この心は、この仏心仏性は、無ではないでしょう、という問いです。
師云く、阿(だ)誰(れ)か他をして無ならしめん。他は是れ何誰ぞ、汝他を覓めんと擬すや。
誰が、心を、道を、無ならしめているんだ、と。心や無とは、一体何者なのか、と。君は、心や道を求めようとしているのか。この質問をしている裴休は、心、悟り、仏心仏性、そういったものを外に置いている。自分はそれを知るものだと思っている。そうじゃない。皆さんもそう思っている方が多いと思う。何かを悟る、坐禅を以って何かを得る。そうじゃない。皆さんは既に悟っている。
心、どこをどう探しても、どこにもありません。ただ、今私の声が聞こえているように、自由自在に働いている。どこにもないけれど働いている。
座禅中に、下でピンポンピンポン鳴っている。まぁお盆の前ですから沢山来て、ピンポーンピンポーンと玄関が鳴っている。あれをうるさいなぁと思った方、そこに間違いがある。何かまっさらな自分がいる、と。うるさいなぁと思っている音は、皆さんの音です。ピンポーン、と下で音がしたら、皆さんがピンポーンとなる。なろうと思ってなるわけじゃあない。自然とそうなる。皆さんが無心であるから、下のピンポーンという音が聞こえる。
汝他を覓めんと擬すや。
何も求める必要は無い。
云く、既に覓むることを許さず、何が故ぞ又他を断ずること莫れと言うや。
老師は何も求めるなと仰る。じゃあどうして、他を断ずるなと言うのですか。何か断ずるものが皆さんにありますか?
師云く、若し覓めずんば、便ち休む。
君が求めることさえ止めれば、全てはその通りである、と。悟りのど真ん中である、と。
即ち誰か汝をして断ぜしむ。
何を断じようと言うのか。
汝目前の虚空を見んに作麼生(そもさん)か他を断ぜん。
虚空、私の目の前の空間。これはどうしようもない。生きてるんだか死んでるんだか、善なのか悪なのか、損なのか得なのか、有るのか無いのか、それも分からない。この空間、邪魔だから無くしてやろう。うん。馬鹿馬鹿しい話です。この虚空をどうやって無くそうと言うのか。云く、此の法便ち虚空に同ずることを得べけんや、否や。
それでは、この法というのは、心というのは、この虚空と同じものですか?どうしても理知、分別から離れられない。
師云く、虚空早晩(いつ)か汝に向かって同あり異ありと道うや。
虚空がいつ、君に、同じであるとか違うとか、言ったことがあるか、と。これ揚げ足をとってる訳じゃあないですよ。同じ、違う、有る、無い。私たちは物事を2つにわけて考える。善と悪、生と死。弟子を何とかしてそこから、分別、相対性から離してあげたいという師の老婆心です。
何にも求めなければ、分別しなければ、そこにそのまんまそれがあります。意識の働きでそれを見んとするから、こう別れてしまう。
我暫く此の如く説くに、汝便ち者(しゃ)裏(り)に向かって解を生ず。
私が方便を以てああのこうのと説いている。言葉を費やしてくだらんことを言うとる。皆さんは、生きていることもなければ死んでいることもない。いやそんな事はないと思うでしょうけど。皆さんは、有る訳でも無い訳でもない。善でも悪でもない。何ら別れていない。分節は頭にだけ有る。
我暫く此の如く説くに、汝便ち者(しゃ)裏(り)に向かって解を生ず。
どうしてそこで、頭を使うんだ。何にも考えんとそのまんま、そのまんま聞いてください。皆さんは有るでもなければ無いでもない。生まれて来てすらいない。死ぬこともない。ね、頭の働きで、いや、何を言っているんだろう、思うでしょう。その働きをやめる。
云く、応に是れ人の与に解を生ぜざるべけんや。
老師が仰るから、逆に私は色んなことを考えてしまうんだ、と。
師云く、我曾て汝を障えず。
自分は、君の邪魔をした事は一度もない。
日常の生活色々なこと、考えて色々考えてあれこれする。ただ、この生き死に、ここだけはいくら考えても分かりません。考えれば考えるほど深みにはまってしまいます。その逆を行くんです。
要(かな)らず且つ解は情に属す。
考えというのは、思いに属している。この解も情も、思いも、考え方も、分別も。
情生ずれば則ち智隔つ。
考え方、思いで心を捉えようとした時、悟りを捉えようとした時、仏を捉えようとした時、それは向こうへ行ってしまう。もう皆さんは、自分の中に、中にというのももうじれったい言葉です。もう、そうある。もう持っている。皆さんは既に仏です。既に悟っています。気がつかないだけ。気がつかない原因は、考え、思い、この頭です。
云く、者裏に向かって情を生ずること莫くんば是なりや、否や。
それなら、ここに向かってあれやこれや考えなければそれでいいんですね?
師云く、若し情を生ぜずんば、阿誰か是と道わん。
もし考え方、思いでこの世の中を捉えなければ是非、善悪、有無、生死、そんなものはどこにもありません。はなからありません。うん。今日のところは、結局、解を生ずるな、と。それだけです。考え方をやめてください、と。ただそれだけです。弟子が色々質問をして、師が色々答えているけれども、その質問が頭から出ている。考え方から出ている。そこがじれったい。もうそういう事はやめましょう。すぅっと無心になって、はっと気がつく。ただそれだけです。今日はここまでといたします。