伝心法要 第二十五

語録提唱

伝心法要 第二十五

2017-08-14

問う、如何なるか是れ道、如何が修行せん。師云く、道は是れ何物ぞ、汝修行せんと欲するや。問う、諸方の宗師相承して参禅学道するは如何。師云く、鈍根人を引接する語なり。未だ依憑すべからず。云く、此れ既に是れ鈍根人を引接する語ならば、未審(いぶかし)、上根人を接するに復何れの法を説くや。師云く、若し是れ上根人ならば、何処にか更に人に就いて他を覓めん。自己すら尚お不可得なり、何ぞ況や更に別に法あって情に当たらんや。見ずや、教中に云く、法法何の状ぞと。云く、若し此の如くんば、都て求覓(ぐべき)を要せざらん。師云く、若し与麼(よも)ならば則ち心力を省く。

今回からしばらく、裴休が質問をして、それに黄檗禅師が答える、というのが続きます。
問う、如何なるか是れ道、如何が修行せん。師云く、道は是れ何物ぞ、汝修行せんと欲するや。
これが裴休の質問です。師云くというのが黄檗禅師の回答です。一見すると、まっすぐな質問を黄檗禅師がはぐらかしているように感じられますが、これは迷いからの質問に対して悟った側から答えると、質問が意味をなしていないとか、トンチンカンな質問であるというような事が起きて、一見するとはぐらかしているように聞こえますが、そうではなくとても親切な答えです。
道とはどのようなものでしょうか?どのように修行したら良いのでしょうか?真面目な、質問です。それに対して道は是れ何物ぞ、汝修行せんと欲するや。ここのところの読み方が難しいのですが、道は是れ何物にして、汝修行せんと欲するや、と訓じても良いと思います。まぁ要は、君は道というものをどのようなものだと心得ているんだ?どのように道というものを考えて、それを修行するなどと言っているのか?という答えです。ここで言う道とは、心と同じです。心とは何でしょうか?こころとは何でしょうか?どのようにそれを知るための修行をしたらいいか?と。禅師が答えて、お前はどう心というものを、こころというものを何物だと思って修行しようなどということを考えているのだろうか?とこう答えています。少しはぐらかしたように聞こえるでしょうが、まぁ段々わかります。
問う、諸方の宗師相承して参禅学道するは如何。
あちこちの修行道場で参禅をしているのはじゃあ一体何のためですか?と。
師云く、鈍根人を引接する語なり。
そんなものは鈍根の人、修行する人を上根、中根、下根と分けております。ここではその下根。中々わからない人間、その人間を導くための方便の言葉である、方便であると。
未だ依憑すべからず。
そんなものに寄りかかっているようではいかんと。
云く、此れ既に是れ鈍根人を引接する語ならば、
これが鈍根の人を導くための方便であるのであれば。
未審(いぶかし)、上根人を接するに復何れの法を説くや。
上根の人を説得するにはどういう法を説くのですか?と。
師云く、若し是れ上根人ならば、何処にか更に人に就いて他を覓めん。
既にこうあります。毎回言うように、みなさんは既に悟っている。道と言うものが何であるか分かっている、分かっていると言うか道を生きている。この伝心法要という本で言えば、心というものを既にそのまま生きている。これがその状態です。今私の声が聞こえている。これがみなさんが悟っている証拠。無心である証拠。目の前のプリントが見えている。みなさんが既に救われている証拠。
今更座禅を組んで、そして悟りを求めるまでもなく、既に悟っている。既に悟っているというのは、既に悟りを生きているということです。悟りとか、心とか、自分の本性とか、自分の中にいる仏とかは、見ることも、聞くことも、感じることもできない。考えることもできない。ただ、それをみなさんは既に生きています。ここがわからない。
一度体験すれば、ああ、何だこんなことを自分は追い求めていたのかと、それが分かりますが、まぁ体験しようがしまいが皆さんは既にそれを生きています。悟りを生きています。救いを生きています。道を歩んでいます。心を使っています。
若し是れ上根人ならば、何処にか更に人に就いて他を覓めん。
この他というのは、心とか、ここでは道のことです。上根の人ならば、人について今更それを求めることはせんと。
自己すら尚お不可得なり、
皆さんは、私もそうですが、自分がいると思っている。うん、確かにここにある。ここにあります。でも、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と前回出てきました。過去の己も、現在の己も、未来の己も、得ることはできない。これは、縁起の出来事です。因縁の出来事です。これや、この頭、どうしても自分から離れられない。自分さえなければ、自己さえなければ、我見さえなければ、この世は縁起のままに、宇宙のうねりのままに、ただ、そうあるだけです。
それを自分という中心を置いてしまう。自分という中心を置いて、その中心からこの世界を見つめるから善があり悪があり、有があり無があり、生があり死があります。自分を中心に置くからです。生死(しょうじ)などというものは本来ありません。この大宇宙のうねりの中の一コマ。我見というものがあるから、善も悪も、男も女も、損も得も、有も無も、すべての相対性、対立が生じます。
何ぞ況や更に別に法あって情に当たらんや。
この情というのは、思いとか考え方とか、そのように考えてください。自分すらいないんだと、今更何を、何の法を求めて、あれこれ思い悩んでおるんだ、と。
見ずや、教中に云く、法法何の状ぞと。
お経の中で、教えというのはどんな姿形も持っていない、と。そう説かれているじゃないか、と。
云く、若し此の如くんば、都て求覓(ぐべき)を要せざらん。
もし老師の仰る通りでなければ、何にも求める必要がないじゃないですか。
師云く、若し与麼(よも)ならば則ち心力を省く。
もしそうならば、無駄な力が必要ない、と。裴休は悪い意味で、もしそうならば何も求める必要がないじゃないですかと。これはとても良い質問です。今更、何かを求める必要はありません。全て、ここに備わっています。お釈迦様も、私たちも、何ひとつ違わない。目は横に、鼻は縦に口は横に、何ひとつ違わない。お釈迦様というのは、12月の8日の未明に明けの明星がきらっと輝くのを見て、はっと気がついた。もともと、自分が持っていたものに気がついただけです。
何かを求めるということは、求めるものが向こう側にある。それをこちらに引き寄せようという行為です。悟りを求める、見性を求める、仏を求める。本来、全て皆さんの中にあります。というか皆さんがその表れです。仏の表れが皆さんです。
座禅やっとって、色々しょうもないことが思い浮かぶ。お金のことや異性のことや、損やら徳やら、色々なしょうもないことが出てくる。構いません。皆さんは仏の表れです。仏という大海原に風が吹いて、皆さんという波が立つ。そして何十年かざわめいて。そしてすっと元の仏の大海に還る。それが人の生死です。波というものは、海の盛り上がりです。つまり、仏の盛り上がりです。
皆さん自分を自分と考えないでください。自分とは仏の盛り上がりなんだ。例えば観音さんが、こう自分として波立っているんだ、と。自分が思うことは観音の思いです。どんなにしょうもなく感じられても、考えているのは観音さまです。観音さまにそんな事を考えちゃいかんとダメを出しているようなものです。ですから、出てくる思いは追わず払わず、無視をする。観音さまに、仏さまにダメを出さない。かといって仏に引きずり回される必要もない。仏というのは今を生きています。今、今、今。ここ、ここ、ここ。今ここ、今ここ、とやればすっ、すっ、すっ、と出てきた思いは消え去ります。追わず払わず、です。初めての方、追わず払わず。これが、坐禅の急所です。
君が何も求める必要がないじゃないですかと言うのは、その通りである。余計な力を使わないで済む、と。この問いでだいたい半分位です。後半だんだん煮詰まってきます。今日はここまでといたします。