伝心法要 第二十四

語録提唱

伝心法要 第二十四

2017-08-2

如来世に現じて一乗の真法を説かんと欲すれども、即ち衆生信ぜずして、謗(そしり)を興して苦海に没す。若し都て説かずんば則ち慳貪に堕せん。衆生の為に溥(ひろ)く妙道を捨てずして、遂に方便を設けて三乗ありと説く。乗に大小有り、得に浅深有るは皆本法に非ず。故に云わく、唯だ一乗道のみありて、余の二は則ち真に非ずと。然れども終に未だ一心の法を顕わすこと能わず。故に迦葉を召して法座を同じうして、別に一心の言説を離れたる法を付し、此の一枝の法をして別に行ぜしむ。若し能く契悟せば、便ち仏地に至らん。

如来世に現じて一乗の真法を説かんと欲すれども、即ち衆生信ぜずして、謗を興して苦海に没す。ここでいう如来はお釈迦様です。お釈迦様が、この世に現じて、29歳で出家して、35歳で悟りを開かれたと。そのご自分の悟りを振り返ってそれを何とか言葉にして、それを説こうと考えられたけれども、2500年前のインドの方々はそれを信じないで、その教えを謗って、苦しみの世界に沈んでしまったと。
若し都て説かずんば即ち慳貧に堕せん。
お釈迦様は12月8日の明け方、明けの明星のキラッと光るのを見て、がらりと悟られた。その悟りを説こうか、説くまいか、これが言葉にならんのです。どうしても言葉にならない。私もこう、縷々説いておりますが、自分の体験とは、やはり食い違う。どうしても言葉にならない。そこでお釈迦様は、法を説くのはやめようと、最初はお考えになられたようです。梵天勧請の伝説が残っています。インドの最高神の梵天が現れて、お釈迦様に、必ずあなたの教えを理解する人間がおりますから、どうか法を説いてくださいとお願いをした。そこでお釈迦様は説法の旅に出て、その後45年間死ぬまで説法を続けられた。ただ、これがどうしても言葉にならないので、最後のところはその人の体験を待つしかない。若し都て説かずんば即ち慳貧に堕せん。ここでお釈迦様が法を説かずにいたら、それは教えの物惜しみであると。
衆生のためにひろく妙道を捨てずして。
そこで我々の為に、本当のところを踏み外さんようにということです。
遂に方便を設けて三乗ありと説く。
大乗仏教とか、小乗仏教とか、聞いたことがあると思いますが、大きな乗り物、小さな乗り物と。たった一つの乗り物と。これはすべてお釈迦様が我々に何とか知ってもらいたいというための方便であると。
乗に大小有り、得に深浅有るは皆本法に非ず。
これは方便ですから、大乗小乗などというものがあったり、見性に、悟りに、深い浅いがあるなんていうものは、皆本物ではないと。
故に云わく、ただ一乗道のみありて、余の二は則ち真に非ずと。
これは法華経の方便本というものに出てます。ただ一つの教えのみあって、その他に大乗である、小乗であるというようなものはないと。
然れども終に未だ一心の法を顕わすこと能わず。
しかし、お釈迦様は方便で45年間、さんざん対機説法、老人には老人なりに、女性には女性なりに、男性には男性なりに、子供には子供なりに説法をしてくださった。ただ、未だ一心の法を顕わすこと能わず。一心というのは何であろうかと。この頭じゃありませんよ。意識ではありません、分別心ではありません、判断する心でもありません。解釈する心でもありません。皆さんが、たとえここでコロッと死んでも、その心は死ぬことはない。生まれてすらいない。般若心経でいう、不生不滅。不生不滅の一心。これだけはついに教えることができなかった。まあ、黄檗禅師はそういっていらっしゃるけれども、実際のところはわかりませんが。
故に迦葉を召して法座を同じうして、別に一心の言説を離れたる法を付し、
迦葉というのは迦葉尊者。お釈迦様の法を継いだ方です。仏教の二代目の方です。いままでさんざん教えを説いてきたけれども、それとは別のこの心、一心、こころ。これが言葉を離れている。だからどうしても説けない。そこでお釈迦様は、花をこう、皆の前で見せた。その時迦葉だけが、にっこりと笑ったと。ああ、こいつはわかっていると。本当に体験をしていると、そう言って、そして迦葉尊者に、君に自分の法を伝えると。第二祖となって、自分亡き後法を伝えてほしいと。
この一心の法だけは、体験してみなければわかりません。今日初めていらした方、15人以上の方が初めていらしてくださいましたが、数を数えてもらいました。自分が息を数える。それではまだまだ浅い。数が数を数えるというところまで行ってほしい。二回目の坐禅で、下でチリチリとか、カンカンとか音がしている。自分が音を聞いている。うるさいなあと、坐禅の邪魔だなあと、思われた方もいらっしゃるかもしれない。それは自分と音という外にあると思っているもの、それを分けてしまっている。元は一つです。これが一心。
一心が分かれて、自分が生まれ、世界が生まれる。ここは洪福寺の交差点のそばですから、実にやかましい。外でブーブー、ブーブー車の音がする。バイクの音がする。やかましいと思う。それが間違え。パンパン(手を打つ)。住職が手をたたいて、自分がそれを聞いたと。そうじゃない。皆さんが鳴ったんです。下でチリチリと。皆さんが鳴ったんです。カンカン。皆さんが鳴ったんです。分けない。分別しない。判断しない。解釈しない。頭を使わない。ここでもって、一心の法を判断すると、分かれてしまう。生と死、善と悪、損と得、有ると無い。分かれてしまう。
皆さんは、自分がいると思っている。あると思っている。ある。一心の法のところでは、有る無しを超えています。あるというのは、解釈です、分別です。自分は生きている。おばあさんは死んでいる。生きていることも無ければ、死んでいることも無い。この一心の法を迦葉に任せて、
此の一枝の法をして、別に行ぜしむ。
その流れが、今に伝わっています。
若し能く契悟せば、便ち仏地に至らん。
若しここのところが本当にわかれば、乃ち仏の境地と同じであると。目というものは、何でも見ることができる、けれども振り返って、眼そのものを見ることはできない。同じように、皆さんはすでに悟っています。ただ、振り返ってそれを見ることができない。これが悟りなんだ、ということが見ることができない。感じることもできない。皆さんは自分の寝姿を見ることはできない、しかし、寝ることはできる。悟りをこれから悟るんじゃあない。すでに悟っている、でもその悟りを見ることも感じることもできないけれども、悟りになることはできる。自分の寝姿を見られないけれども、我々は眠れる。自分の悟りを、自分の中にいる仏を見ることはできないけれども、自分の中にいる仏になることはできる。
そこんところ、遠回りしたらいかんですよ。向こうに悟りがある、何かありがたいものがある、それを引き寄せよう。もうすでに別れちゃってる。それを一つに戻すこと。元の一つに戻すこと。これが坐禅です。