伝心法要 第二十三

語録提唱

伝心法要 第二十三

2017-05-31

言わゆる同じく是れ一精明、分かれて六和合と為ると。一精明とは一心なり。六和合とは六根なり。此れ六根各々塵と合す。眼は色と合し、耳は声と合し、鼻は香と合し、舌は味と合し、身は触と合し、意は法と合して、中間に六識を生ずれば、十八界と為る。若し十八界所有無しと了ぜば、六和合を束ねて一精明と為す。一精明とは即ち心なり。学道の人皆此れを知れども、但、一精明六和合の解を作すことを免るる能わず。遂に法に縛せられて本心に契わず。

 

 

言わゆる同じく是れ一精明、分かれて六和合と為ると。

般若心経に無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界という一節があります。あれが十八界です。十八界を空じたところです。

同じく是一精明、分かれて六和合と為る、という禅語があります。(こぶしを突き上げて)これが一精明です。(こぶしを開き)これが分かれて、六和合に分節します。もとは、一心。これが分かれて、六根になる。六和合と為る。

一精明とは、一心なり。

このテキストは心とは何であろうか、と言うことを懇切丁寧に教えてくださっている。心、こころとは何ぞやと、それだけを繰り返し繰り返し、縦から横から様々に説いてくださっている。心とは、意識とは違います。ここが分かりづらいところ。心とは、意識と同じではない。

心という、仏心でもいいでしょう、無心でもいいでしょう、その状態がある。一心がある。それが人間の思いを通すと分節する。分かれる。六和合と為る。

六和合とは、六根なり。

六根というのは、眼耳鼻舌身意です。眼、耳、鼻、舌、からだ、そして意識です。心が分かれて六つになる。その六番目が意識です。ですから意識というのは、心そのものではない、けれども心が分節したものである。分別されたものである。

此れ六根各々塵と合す。

六塵と言います。色声香味触法のことです。六根が六塵とこう合する。

眼は色と合し、耳は声と合し、鼻は香と合し、舌は味と合し、身は触と合し、意は法と合して、

目は色に、こう見えます。耳は声と合し、いろいろな音が聞こえる。鼻は香と合し、いろいろな香りがかげる。舌は味と合し、身は触と合し、これは接触の触です。この体の感じ。そして、意は法と合して、意識は様々な存在を知ることができる。

中間に六識を生ずれば、十八界と為る。

六根と六塵が合すると、そこに六識が生まれます。般若心経では、眼界乃至意識界と。六つあるうちの始めと最後しか説かれていませんが、眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、意識界と。六つの識が生ずる。目と存在がこう合して、見えるという事態が発生します。耳は音と合して聞こえるという事態が生じます。これが眼耳鼻舌身意の六根と、色声香味触法の六塵それぞれにある。3×6=18、十八界と為る。般若心経ではこの十八界すべてを空であると、無であると書いています。皆さんの目は空です。何の本質もありません。耳も空です。皆さん自体が空です。この世界すべて空です。それが合したものも空です。すべて空じて、空寂の世界に入ります。

若し十八界所有無しと了ぜば、

すべて空であると分かったならば、

六和合を束ねて一精明と為す。

こう分かれてしまったものを、本来の一精明、本来の一心に戻すと。

一精明とは即ち心なり。

いいですか、皆さんが坐禅によって求めている所は、この心です。心というのはいくら振り返っても、どこをどう探そうとも見つかりません。言ってみれば、見つけているそれが心です。毎回たとえ話でいいますが、眼は何でも見れるけれども、振り返って眼を見ることはできない。刀は何でも切ることができるけれども、刀それ自体を切ることはできない。我々の心はすべての根源であるけれども、心は心を知ることができない。仏は仏を知ることができない。

我われは自分の寝姿を見ることができない、でも寝ることはできる。我われは、死んだ後自分の死体を見ることはできない、でも死ぬことはできる。我われは、心を知ることはできない、しかし心になることはできる。仏になることはできる。自分の中に仏がいます。これを知ることはできない、ただ、仏になることはできる。私たちは悟りを知ることはできない、でも悟ることはできる。というか、すでに悟っています。悟りのど真ん中。それに気が付く。気が付くための方法はただ一つ、成りきることです。今表で雨音がしている。車が水をはねている音が聞こえる。皆さんが音を聞いているわけではありません。そう思っているでしょう。いま私の声を聴いている。皆さんが私の声を聞いていると思っている、そうじゃない。この音がみなさんです。分別するから、解釈するから、自分が住職の声を聴いていると。元来の一心が分かれてしまう。分別されてしまう。

学道の人皆此れを知れども、

皆さんはそんなことはわかっている。眼耳鼻舌身意は無い。色声香味触法も無い。眼界も無ければ、意識界も無い。分かっている。

但、一精明六和合の解を作すことを免るる能わず。

頭で理解してしまう。元は一心なんだと。これが分節して、六和合、六根に分かれてしまう、ということを頭で分かっても仕方がない。

遂に法に縛せられて本心に契わず。

頭で分かっている限りは、分かるというのは分けるということです。分別するということです。分かっている間は、この心と一体になることはできない。何も分別せず、そのものと一つになる。何も解釈せず、パンパン(手を打つ)。手をたたいた音が聞こえる、じゃない。パンパン。パンパンパン、皆さんが鳴っている。皆さんの音です。いろいろなものが見える。自分が見ているんじゃない。この見えているものが皆さんです。体験の世界の出来事です。じっくり坐ってください。