伝心法要 第二十二

語録提唱

伝心法要 第二十二

2017-05-31

如来法を迦葉に付してより巳(この)来(かた)、心を以って心を印して、心心異ならず。印を空に著(つ)かば、即ち印は文を成さず。印を物に著かば、即ち印は法を成さず。故に心を以って心に印して、心心異ならず。能印所印倶に契会し難し。故に得る者少なし。然も心は即ち無心ならば、得も即ち無得なり。

仏に三身あり、法身は自性虚通の法を説き、報身は一切清浄の法を説き、化身は六度万行の法を説く。法身の説法は言語音声形相文字を以って求むべからず。所説無く所証無く、自性虚通なるのみ。故に曰く、法の説くべき無き、是を説法と名づくと。報身化身は皆機に隨うて感現し、所説の法も亦事に隨い根に応じて、以って接化を為す。皆真法に非ず。故に曰く、報化は真仏に非ず。亦説法者にも非ずと。

 

 

如来法を迦葉に付してより巳来。

ここでいう如来はお釈迦様です。お釈迦様が、自分の法を弟子の迦葉尊者に伝えてこのかた。

心を以って心を印して、心心異ならず。

この心というのがこの本のテーマになっています。一椀のコップにいっぱい入った水を、お釈迦様が弟子の迦葉尊者に一滴残らず伝えた、迦葉尊者は一滴もこぼさずに同じ水を受け取った。心を以って心を印して。この心というのは、我々の様々な思いのことではありません。仏心、あるいは無心。皆さんが坐って、スーッと無心の境涯に至る、その無心。無心を以って、無心を印してと。

この印しての印。お前は悟りを得たという人間には、印可証明というのを渡されます。だいたい20年から25年の修業が必要です。その印可証明の印です。

心を以って心を印して、心心異ならず。お前は確かにこの心を悟ったと、その心を印した。渡す方の心と、受け取る方の心は、まったく違いはない。無心が無心に無心を伝える。

印を空に著かば、即ち印は文を成さず。

印を、まあお前は悟ったと、それを判子に例えれば、空に判子を押しても、文を成さず、そこには何にも写らない。

印を物に著かば、即ち印は法を成さず。

物を伝えるようであれば、仏法ではない。なにか悟りらしきものを伝えるのであれば、そんなものは仏教ではない。毎回言いますが、皆さんはすでに悟っています。ただそれに気が付いていない。悟りというものを、特別なものだと思っていらっしゃる。いまこうして私の声が聞こえる。これが悟りです。目の前のテキストが見える。これが悟りです。

外で車が音を立てて走っている。皆さんが車の音を聞いているわけではありません。ゴーっという音が、皆さんです。坐禅中に横断歩道の音がやかましいなあ。車の音がやかましいなあと思っているのは、自分と音とを分けている。パンパン(手を打つ)。皆さんが鳴っています。自分が住職が手をたたいた音を聞くのではありません。パンパン。皆さんが鳴っています。皆さんはすでに悟っています。この音が聞こえる、これが証拠です。無心だから聞こえるんです。これから坐禅を組んで無心になろう、というのではありません。ここは根本のところです。皆さんはすでに無心です。いろいろな雑念にまみれて、そのまま無心です。まあ難しいところですが。

故に心を以って心に印して、心心異ならず。

故にこの心を、無心を以って、無心に印して、あなたは無心であると、無心が言っている。無心と無心は、何ら違わない。

能印所印俱に契会し難し。

能というのは、主観のことです。皆さんは聞いていると思っているから、あえてこの能という言葉を使えば、皆さんの主観のことです。聞いている方です。所というのはこの世界のことです。能というのは皆さん。所というのは世界。主観と客観。自分と世界と。そういうふうにお考え下さい。能と所という。

印をつくものと、印をつかれるもの、ともに契会し難し。合一し難い、一枚になり難い。私がいくら車が鳴っているのは、皆さんが鳴っているんだと言っても、私が手をたたく音は、皆さんが鳴っているんだと言っても、なかなか納得しない。

同じものです。もとは一つです。これが分かれて皆さんと車の音に分かれます。皆さんと私の声に分かれます。もとはこの合一したあるものです。まあ、仏心仏性、無心、心。これが一番大切なところです。もともと一体です。考えるから分かれてしまいます。坐禅というのは、元の一体の自分を取り戻す行為です。

故に得る者少なし。

なかなかわからない。

然も心は即ち無心ならば、得も即ち無得なり。

この心というのは、無心であるから、何も得ない物を得たと。無得を得たと。この一節はとても大切な一節です。

仏に三身あり。

仏には三つの違いがある、三種類の仏がある。

法身は自性虚通の法を説き。

一つは法身の仏であると。これが大事です。法身,法の体。法身は自性虚通の法を説き。この自性虚通というのは説明しづらいんですが、法身というのは、この前に散々出てきた心のことです。無心であり、仏性であり、真如で有り、悟りの本体というようなイメージです。仏といってもこの場合の仏は、人格を持った仏というよりも、悟りの本体とそのように考えてください。これは自性虚通の法を説いている。何の妨げも無いと。

報身は一切清浄の法を説き。

法身、報身、化身と仏を三つに分けています。法身というのは、悟りの本体。これは何のとらわれも無い。自由自在である。報身というのは、仏の属性でしょうか。仏の働き。うちは本尊様が薬師様ですが、普通禅寺の本尊様はお釈迦様です。真ん中にお釈迦様がいらして、右側に文殊菩薩がいる。左側に普賢菩薩がいる。文殊、普賢は報身です。お釈迦さまというある絶対の存在、本体。その智慧を象徴しているのが、文殊菩薩です。文殊の智慧と言います。仏の行為を象徴しているのが、普賢菩薩です。

仏の慈悲を象徴しているのが、観音菩薩です。皆報身仏です。本体があってその働きがある。本体を法身と言います。働きを報身といいます。仏の属性。仏の様々な徳の一面を表したものです。

それは一切清浄の法を説き、すべてはそのままできれいなんだと。煩悩にまみれているけれども、その煩悩がそのまま悟りです。渋柿の渋がそのまま甘さかな。この煩悩が渋い苦い煩悩が、悟りに変わります。まあ、迷いと悟りは同じ一心です。

化身は六度万行の法を説く。

化身仏というのは、我われ一人一人に応じて、その姿を変化させて現れる。そういう仏様です。観音様などは観音経では、この人には仏の姿が合うだろう、場合によっては異性の姿をとって現われたり、鬼の姿をとって現われたり、子供の姿をとって現われたり、その人を救うために、様々な姿で現れる。これを化身仏と言います。それは六度、六波羅蜜です。六度万行、様々な修行の方法を説く。

法身の説法は言語音声形相文字を以って求むべからず。

本体の、本当の説法は、言葉や形や文字では求められない。言語思慮念慮では、そこには届かない。

所説無く所証無く。

何も説くこともなければ、また何の悟ることも無い。言ってみれば、これはこれなんです。自分は自分なんです。何の不足もない。何の余りもない。

自性虚通なるのみ。

自分の本性というのは、何のとらわれもない境地である。我われは、生にとらわれます。健康にとらわれます。年齢にとらわれます。性別にとらわれます。これらはすべて空しいもの。サーッと流してしまってください。我われは生きてもいません。もちろん死んでもいません。生まれてすらいません。いやそんなはずはないと。自分は70年80年前にオギャーと生まれて、何々という名前を与えられたと思っているかもしれませんが、これは(体をたたく)生まれてすらいません。ましてや、死ぬものではありません。難しいところ。

故に曰く、法の説くべき無き、是を説法と名づくと。

何も言うことはない。先ほども言いましたように、これはこれで完結しています。自分は自分で完結しています。なんの説法も必要がない。

報身化身は皆機に隨うて感現し。

報身仏や化身仏は、我々のタイプに応じて現れてくださる。

所説の法も亦事に隨い根に応じて、以って接化を為す。

説法してくださるとしても、言葉を用いて、その人の根気、生まれついた才能やら、そういうものに基づいて説法してくれる。いろいろなことを、みな五千四十余巻と言うほど経典は多いですが、これはみな対機説法です。子供にあったら子供相応に、年寄りにあったら年寄り相応に、若い人にあったら若い人相応に法を説きます。

皆真法に非ず。

これはみな本当の法ではないと。

故に曰く、報化は真仏に非ず。

報身、化身は真の仏ではない。

亦説法者にも非ずと。

本当の説法はそんなものではない。何も説かないのが本当は一番いいのですが、それではとっかかりがない。とっかかりがないので、逆にたくさんの言葉を使って、皆さんにお話をしています。でもその根源は、皆さんがすでに悟っている。皆さんはすでに救われているということです。

皆さんが皆さんである限り、何の問題もない。そういうことです。