伝心法要 第二十一

語録提唱

伝心法要 第二十一

2017-05-31

凡そ人多く境に心を礙えられ、事に理を礙えられると為して、常に境を逃れて以って心を安んじ、事を屏(しりぞ)けて以って理を在らしめんと欲す。乃ち是れ心が境を礙え、理が事を礙うることなるを知らず。但、心をして空ならしめば、境自ずから空なり。但、理をして寂ならしめば事自ずから寂なり。倒(さかし)まに用心すること勿れ。凡そ人多く心を空ずることを肯(うけが)わず。空に落ちんことを恐れて、自心本空なるを知らず。愚人は事を除いて心を除かず。智者は心を除いて事を除かず。

菩薩は心虚空の如くにして一切倶に捨し、作るところの福徳、皆貪著せず。然るに捨に三等あり。内外身心倶に捨し、能所皆忘ぜば、是を大捨と為す。若し一遍に道を行じ徳を布(し)き、一遍に旋(な)げ捨てて希望の心なくんば、是を中捨となす。若し広く衆善を修して希望する所あるも、法を聞いて空を知り、遂に乃ち著せずんば、是を小捨と為す。大捨は火燭の前に在るが如く、更に迷悟なく、中捨は火燭の傍らに在るが如く、或いは明或いは暗、小捨は火燭の後ろに在るが如く、坑穽(こうせい)を見ず。故に菩薩の心は虚空の如くにして一切倶に捨す。過去心不可得なるは是れ過去の捨、現在心不可得なるは是れ現在の捨、未来心不可得なるは是れ未来の捨、謂わゆる三世倶に捨するなり。

 

凡そ人多く境に心を礙(さ)えられ。

大抵の人は、境、客観世界。外に見えるもの、感じるものに心を妨げられていると思っている。

事に理を礙えられると為して。

事というのは現象です。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、舌に味わうもの、すべて現象です。この世界、これを事といいます。理というのは本体です。我々の仏心仏性のことです。現象に仏心仏性を妨げられると勘違いをしている。

常に境を逃れて以って心を安んじ、

大抵の人は、心を安心させる、穏やかにさせるために、客観をおさめようとする。今日の坐禅会の始まりに、まあ大きな音で救急車が外を走っていった。あれが事です。うるさいなぁ、早くいってしまわんかなぁ。境を逃れて以って心を安んず。あのウーウー、ピーポーピーポー。あれは外の事態ではありません。皆さんが鳴っています。

事をしりぞけて以って理を在らしめんと欲す。

同じことです。現象がそのまま本質です。色即是空 空即是色。現象がそのまま本体です。

乃ち是れ心が境を礙え、理が事を礙うることなるを知らず。

心が客観世界を遮っている。ちょうど救急車が鳴っている。皆さんがあの音を妨げているんです。自我が、我見が事実を妨げてるんです。見ればある。聞けば聞こえる。これが事実です。事実の世界です。それを無くして、何か仏心なり仏性なり無心なり、そういうものを求める愚かさ。それを離れては何もありません。意識、思いが事実の妨げです。己の本質にとらわれて、現象世界をどうこうしようとしている。

但、心をして空ならしめば、境自ずから空なり。

自分を、己の意識を空にすれば、この客観世界が空になる。

但、理をして寂ならしめば事自ずから寂なり。

自分の思いを静めれば、この世界が静まる。こちらを静める。外の世界に手出しは無用です。

倒しまに用心すること勿れ。

あべこべの用心をしちゃいかん、と。

凡そ人多く心を空ずることを肯わず。空に落ちんことを恐れて、自心本空なるを知らず。

大抵の人は、この心を空ずることを肯わない。なぜならば、空と虚無とを間違えている。この心を空ずるということが、自分が虚無になってしまう、何にも無くなってしまうとそういうふうに恐れている。それは元来空であることを知らないだけである、と。

愚人は事を除いて心を除かず。

愚かな人は現象を除こうとして、意識を除かない。現象世界、そっちをどうこうしようとして、この意識、分別心、解釈する心、これを整えようとしない、と。

智者は心を除いて事を除かず。

智慧のある人は、この世界をどうこうしようとしない。車の音が聞こえたらそのまま、雑念が出てきたら出てきたまま、何も手を付けず、何も握らず、何物にもとらわれず、ただ分別心、解釈する心、この思いを除く、と。

菩薩は心虚空の如くにして一切俱に捨し、作るところの福徳、皆貧著せず。

菩薩の心は、虚空の様である、虚空というのはこの空間です。これを何とかしようと思っても、どうすることも出来ない。これは有るのか無いのか?増やすことも減らすことも出来ない。何にもくっつかない、どうもならない。この虚空の様なものである。菩薩に限りません、皆さんのこの心には良いことも悪いこともとどまりません。

然るに捨に三等あり。

捨てることには三つのことがある。

内外身心俱に捨し、能所皆忘ぜば、是を大捨と為す。

内も外も無い、身体も心も無い。皆放下してしまう。捨て去ってしまう。能というのは主観です。所というのは客観です。皆さんの大きな勘違いは、自分が何かを見ている、自分が何かを聞いていると主観が客観を何々していると思っている。これが大きな誤解です。もともと主観と客観は一つです。やかましいと思っている雑音が自己です。是を大捨と為す。大きな捨と名付ける。

若し一遍に道を行じ徳を布き、一遍になげ捨てて希望の心なくんば、是を中捨となす。

もし一方では一生懸命修行をして、人の為になる行いをして、もう一方ではそんな事は投げ捨ててしまう。功徳を求める心が無くなる。是を中捨と為す。

若し広く衆善を修して希望する所あるも、法を聞いて空を知り、遂に乃ち著せずんば、是を小捨と為す。

もし様々な善行を為して、ああこれだけ良いことをしたんだからと、功徳を求める心があったとしても、このような説法を聞いて元来功徳は空である、無功徳であるということを知ってそれに執著しなければ、自分の善行に執著しなければ、是を小捨と為す。

大捨は火燭の前に在るが如く、更に迷悟なく、

ロウソクの前にあるように、煌々と照らされている。大捨のところには悟りも迷いもありません。

中捨は火燭の傍らに在るが如く、或いは明或いは暗、

中捨はロウソクの横にいるが如くであるいは明るくあるいは暗い。

小捨は火燭の後ろに在るが如く、坑穽を見ず。

小捨はロウソクの明かりの後ろにいるが様で、落とし穴が見えない、と。

故に菩薩の心は虚空の如くにして一切俱に捨す。

すべてを捨てる。己を捨て、この主観を捨て、我見を捨てる。この世の中はこの通りにできてる。ただ唯一要らないものが自分です。自我です。我見です。この自我、我見さえ無くせば、この世界はこのまま安楽の世界です。

過去心不可得なるは是れ過去の捨、現在心不可得なるは是れ現在の捨、未来心不可得なるは是れ未来の捨、

金剛経の言葉です。過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。過去の心は得ることはできない。昨日の心はつかみ取ることはできない。今の心もつかみ取ることはできない。未来の心もつかみ取ることはできない。これが過去の捨、現在の捨、未来の捨であると。

心というのはどこをどう探してもありません。皆さんが自分の中の仏心仏性、どこをどう探しても見つかりません。そこで毎回言います。見つけられないから、それになる。数が数になるまで数に徹する。徹底無字になる。三昧という境地があります。自分と世界が一体になっている。その状態は、振り返ってもどうしても見れない、坐禅で三昧に入った自分を見ることはできないけど、三昧になることはできる。

謂わゆる三世俱に捨するなり。

全てを投げ捨ててそれになりきってください。