伝心法要 第十九

語録提唱

伝心法要 第十九

2017-05-17

凡そ人終わらんと欲する時に臨みて、但五蘊皆空にして四大我無く、真心無相にして去らず来たらず、生時、性亦来らず、死時、性亦去らずと観じ、湛然として円寂ならば、心境一如なり。但、能く是の如く直下頓に了せば、三世の為に拘繋せられず。便ち是れ出世人なり。切に分毫の趣向あることを得ざれ。若し善相の諸仏来迎し、及び種々に現前するを見るも、亦心随って去ること無く、若し悪相種々に現前するを見るも、亦心畏怖すること無く、但、自ら心を忘じて法界に同ぜば、便ち自在を得ん。此れ即ち是れ要節なり。

 

凡そ人終わらんと欲する時に臨みて、

臨終です。この生がまさに今終わらんとしている時、臨終の間際。

但五蘊皆空にして四大我無く、

私たちの心と体、これを五蘊、五つに分けています。色受相行識、私たちの心と体は皆空である。そして四大我無く、地水火風でわれわれの体はできていますが、そのどこにも我というものがない。

真心無相にして去らず来たらず、

ここが難しいですが、真心、我々に黄檗禅師が繰り返し繰り返し私たちに伝えようとして下さっているこの心です。このこころには姿がなく、去らず来たらずです。死んでどこかに去るわけではない。それどころか、これは生じてすらいない、来てもいない。この我々のこころ、心、頭の事じゃありません。この心というものは、姿もなく、形もなく、生まれてきてもいない。ましてや死ぬこともない。この去らず来たらず。とても難しい。

今洪福寺では、私の代になってから年に四回、一口法話と名付けて葉書を檀家さんに送っています。両彼岸とお盆と正月。今回は、私はどこに去るのかということで、お葉書を出しました。これは良寛さんの若い頃の疑問です。良寛さんに限らず、我々もこの疑問が一番かなと思います。我が生、いずこより来る。この生まれてくる生というのはどこから来たのか。去っていずこにか行く。死んでどこに行くんだろうか。自分はどこから生まれて、死んでどこに行くのか。これが良寛さんの若い頃の言葉として残っています。もちろん、良寛さんに限らず、すべての祖師方、お釈迦さまもそうです。この生と死というのが仏教の一番大事なテーマです。生死一大事因縁と言います。この生と死が一番大切なテーマであると。

真心無相にして去らず来たらず。良寛さん、どこに去るのか、どこから来たのかという疑問を持って、若い頃修行をなさった。晩年の良寛さんは何かのんきな感じですが、若い頃はそれはそれは大変な修行をなさった。その頃の一番の主題です。それを黄檗機運禅師は、去ることも無ければ、来ることも無いと言っています。

生時、性亦来らず、

この肉体、見たところはオギャーと生まれてきていますが、その真心、あるいは本性、それは生まれてすらいない。どこから来たわけでもない。

死時、性亦去らずと観じ、

死ぬ時どこに行くのか。どこにも行きゃあせん。大体生まれてきていないものが、死ぬことはない。来ていないものが、去ることはない。これはこの現象としての肉体のことではありません。現象としての我々の身心のことではありません。我われの本性です。こころです。こころといっても、この意識、分別、判断、解釈、その心ではなく、ずーっと説いてきた真心です。仏心であり、無心です。これはどこからも来ない。どこにも去らない。生まれてくることもなく、死ぬこともない。

湛然として円寂ならば、

そう湛然と悟って、心が静まっておれば、

心境一如なり。

この主観と、この客観世界、これは同じものである。この世界は縁起しています。空というのは縁起のことです。難しいですが。こう今私がお話ししている。それを皆さんが聞いている。これも一つの縁起です。今外の車の音が聞こえる。これも一つの縁起です。目の前のテキストが見える。そこでどうしても我々は、自分と音、見られているテキスト、これを分けてしまいます。自分が私の声を聴いていると思っている。そうではなくこれが皆さんです。パンパン(手をたたく)。皆さんが音を聞いたんではなく、パンパン。これが皆さんです。心境一如なり。主観と客観が分かれる以前のことです。

但、能く是の如く直下頓に了せば、

このようにここで頓悟すれば、まあ、ここで分かってほしい。頓に了せば,

三世の為に拘繋せられず。

過去であるとか、現在であるとか、そういう時間的なものに何もとらわれない。

便ち是れ出世人なり。

これが本来の出家の姿です。この現象から、迷いの現象世界から超越していると。

切に分毫の趣向あることを得ざれ。

ここでちょっとでも趣向してはいけない。坐禅を組んで、無心になって、悟りを開こう。これが趣向です。何べんも言いますが、すでに皆さんは悟っています。悟ろう、本当のことを知ろう、これが趣向です。そうすると、悟りが向こう側に行ってしまいます。もうすでにこうこれ、悟りの塊です。皆さん悟りのかたまり。悟りでできています。それが悟ろうとしている。仏が成仏しようとしている。今ここのこれに収まってください。何にも目指さない。今ここのこれに、自分に、収まってください。悟りを向こう側に置かない。ここに収まる。

若し善相の諸仏来迎し、及び種々に現前するを見るも、亦心随って去ること無く。

まあ、人間というのは不思議な動物で、自分が死ぬということがわかっている唯一の動物です。ですから、死ぬ時、多分いろいろなものを見るんでしょう。これは皆さん楽しみに待っとたらいい。たくさんの仏が雲に乗ってスーッとお迎えに来てくださる。あ―これで自分は極楽に連れて行ってもらえるんだなというような素晴らしい末期のビジョンを見る人もいる。

若し悪相種々に現前するを見るも、

鬼や悪魔や恐ろしいものが現れて、やれ地獄に連れて行ってやろうかというビジョンを見る方もいる。にっこり笑って死ぬ人もいれば、苦しみの中に死んでいく人もいる。どうあっても、それにとらわれることなく、臨終を迎えてくださいと。

亦心随って去ること無く。

ああ仏さんが迎えに来たな、連れてってくださいということも無ければ、鬼が現れ悪魔が現れても、恐れる心を抱かない。

但、自ら心を忘じて法界に同ぜば、

意識、分別、そういったものを無くして無心になれば、宇宙が自分である。世界がそのまま自分である。

便ち自在を得ん。

自由自在である。

此れ即ち是れ要節なり。

これが要諦です。どうしても何かを求めてしまう。まず求めることを止める。この自分に収まる。そして、今やっていることに意識をスッと置く。ひとーつ、ふたーつ、みーつ。そこに意識をただ置いておくだけ。ムー。無字にただ意識を置いておくだけ。いま私のお話を聞いていただいている。ここにただ意識を置いておくだけ。どこかに飛ばさない。気を飛ばさない。いま、ここ、これ。今ここに戻る。それをずーっと続けていただけば、本当の無心というのがわかります。

今日のところはとても難しいところです。この縁起している世界、そこに不要なものがただ一つ。我。自分です。我見です。我見さえ無くせば、この世界すべてが自分です。自分さえ無くせば、この世界はすべて自分です。