伝心法要 第十四

語録提唱

伝心法要 第十四

2017-01-12

学道の人若し要訣を知ることを得んと欲すれば、但、心上に於いて一物をも著くること莫れ。仏の真法身は猶虚空の如しと言う。此れは是れ法身即ち虚空、虚空即ち法身なるに喩う。常人は法身は虚空処に遍く、虚空の中に法身を含容すと謂うて、法身即ち虚空、虚空即ち法身なることを知らず。若し定んで虚空ありと言わば、虚空は是れ法身ならず。若し定んで法身ありと言わば、法身は是れ虚空ならず。但、虚空のみの解を作すこと莫れ、虚空即ち法身なり。法身のみの解を作すこと莫れ、法身即ち虚空なり。虚空と法身と異相なし。仏と衆生と異相なし。生死と涅槃と異相なし。煩悩と菩提と異相なし。一切の相を離る即ち是れ仏なり。凡夫は境を取り、道人は心を取る。心境双び忘ず、及ち是れ真法なり。境を忘ずることは猶易く、心を忘ずることは至って難し。人敢えて心を忘ぜざるは空にして撈摸無き処に落つるを恐れて、空本空無く、唯一真法界なるを知らざるのみ。

学道の人若し要訣を知ることを得んと欲すれば、
皆さんが坐禅の要訣、これを知りたいと思うならば、
但、心上に於いて一物をも著くること莫れ。
これが坐禅の要訣です。心上に於いて一物をも著くること莫れ。執着するなと。囚われるなと。それだけです。いろいろな仏教学等ありますけれども、修業上においては、執着しない、囚われない、これだけです。心上に於いて一物をも著けないというのはそういうことです。囚われないように。
そして我々の一番の囚われは、考え方です。思いです。あれが欲しい、これが欲しい、あいつは嫌いだ、こいつは好きだというような、俗にいう煩悩よりも、一番根が深いのは、分別する心、判断する心、解釈する思い、考え方、思い方です。善悪、損得、生死、有無、悟りと迷い、こういう相対的な二つ眼で、世の中を見るなということです。それは考え方です。今の様子が皆さんの事実です。その事実の、今の事実のど真ん中に皆さんがいれば、それで解決です。そこから外れると、考え方に落ちてしまいます。考え方ではない、見えている、聞こえている、熱い寒いを感じている。事実にただある。分別、判断、解釈を、そこに一切入れない。これが坐禅の要訣です。
仏の真法身は猶虚空の如しと言う。此れは是れ法身即ち虚空、虚空即ち法身なるに喩う。常人は法身は虚空処に遍く、虚空の中に法身を含容すと謂うて、法身即ち虚空、虚空即ち法身なることを知らず。仏の真法身はこの空間のようなものだと。法身というのも訳しづらいのですが、仏の本体。仏の本体が、乃ちこの空間であると。この空間は、そのまま仏の本体である。
普通の人は、仏の本体がこの宇宙いっぱいに遍く、そしてこの宇宙が仏の本体を含んでいると思っている。仏の本体、仏性が即ち空間である。空間が即ちそのまんま仏性である。そのことに気が付かない。
この空間というのはなかなか面白いもので、この私の目の前の空間、これは果たして有るのか無いのか。色を付けようとしても色はつかない。香りをつけようとしても香りもつかない。味もつかない。果たしてこの空間は一体いつ生まれたのか。いつか滅びる時が来るのか。ちょっとこれが邪魔だなあと思っても、取ることもできない。もう少しこの空間が欲しいなあと考えても、増やすこともできない。不生不滅、不増不減。空間というのは手の付けようがない。なんとも手の付けようがない。皆さんの法身も、この空間と同じように全く手の付けようがない。
若し定んで虚空ありと言わば、虚空は是れ法身ならず。
この空間があると言えば、空間は法身ではないと。
若し定んで法身ありと言わば、法身は是れ虚空ならず。
法身。狗子仏性で随分迷ってる人がいます。こんな自分にも仏性がありましょうかと。仏の本質がありましょうかと。趙州は無と答えた。有でもない無でもない。法身も同じです。
但、虚空のみの解を作すこと莫れ、虚空即ち法身なり。
この虚空がこのまま法身であり仏性である。
但、法身のみの解を作すこと莫れ。法身即ち虚空なり。
法身が虚空、空間である。今日の処は実に難しい。
虚空と法身と異相なし。仏と衆生と異相なし。
この宇宙と法身は何ら違いがない。同じように、悟った仏と迷える我々は、なんの違いもない。皆さんはそのまま仏です。ここで、え?と思わない。自分が仏であることが信じられないのは、それは信心が足りないということ。己の心を信じる。仏教では信仰とはいいません。信心と言います。心を信じる。心はそのまま仏です。これを信じる。疑わない。
生死と涅槃と異相なし。
生まれてきて百年もたたずにわれわれは死んでいく。それが永遠の涅槃である。
煩悩と菩提と異相なし。
煩悩と悟りは全く同じものである。欲しい、惜しい、憎い、かわいい。この煩悩がそのまま悟りである。
一切の相を離る即ち是れ仏なり。
一切の姿かたち、一切の特徴、一切の考え方、一切の見方、見を離れる。これが仏である。
凡夫は境を取り、道人は心を取る。
我われ凡人は客観世界、外に求め、修業する人間は、主観、見る側聞く側を中心に物事を考える。主観と客観。凡夫も同人も、これが一緒であることを知らない。見ているものが、見られているものです。聞いているものが、聞かれているものです。今外でバイクが大きな音を立てている。皆さんが聞いているんじゃない。あれが皆さん。
心境双び忘ず、乃ち是れ真法なり。
主観も客観も、ともに忘れる。これが真実の教えである。
境を忘ずることは猶易く、心を忘ずることは至って難し。
この客観世界、これはまあ坐禅をすればすっと消え去る、でも、俺が俺が、私が私がというものが、なかなか外せない。自我があると思っている。ただその我見だけを外せば、私がという思いだけ外せば、この全宇宙すべて皆さんです。我々は、生まれて何十年か生きて死んでいく、そういう有限な存在ですけれども、それは、私というものを真ん中に置いてみるから。私というものを真ん中に置いて考えるから、有限になってしまう。自我を中心におかない。我見を外す。そうすると、空間的には無限。時間的のも永遠。この大宇宙すべて皆さんになります。
人敢えて心を忘ぜざるは空にして撈摸無き処に落つるを恐れて。
この我見を外すというのをなかなかできないのは、虚無になってしまうんじゃないか。仏教は虚無の教えであると、誤解を受けやすい。
空本空無く。
空というものは、空ですらない。禅定の深いところでは、この自分もなければ世界もない。無いということも無い。それが空です。それをも空じる。そこにも尻据えない。囚われない。何にもないというとこに囚らわれてしまう。空を実践の方から見ると、囚われないということです。最初に帰ります。要訣を知ることを得んと欲すれば、但、心上に於いて一物をも著くること莫れ。囚われるな。これが空の実践です。ただ囚われないことに囚われてしまう。空とは囚われないということ。それをも空じる。
唯一真法界なるを知らざるのみ。
このまんま。そのままです。そういってもなかなか信じられない。そのまま。我々はすでに出来上がっています。それをわからなくしているのが、考え方。分別心。判断する心。解釈する心。これを無くして、ただこう見たら見たまま。ただ聞いたら聞こえたまま。熱い、寒い、そのまま。これが直下。直下無心に、即今無心になる。