伝心法要 第十三

語録提唱

伝心法要 第十三

2017-01-5

唯、直下頓に自心本来是れ仏なりと了して、一法の得べき無く、一法の修すべき無し。之は是れ無上の道なり。之は是れ真如仏なり。学道の人、祇怕る、一念有ならば、即ち道と隔つことを。念念無相、念念無為なる、即ち是れ仏なり。
学道の人、若し成仏を得んと欲せば、一切の仏法総て学することを用いざれ。唯、無求無著を学べ。求むること無くんば即ち心生ぜず。著すること無くんば即ち心滅せず。不生不滅即ち是れ仏なり。
八萬四千の法門は八萬四千の煩悩に対す。祇、是れ教化接引門なる。本一切の法無し。離すれば即ち是れ法なり。離を知る者是れ仏なり。但、一切の煩悩を離すれば、是れ法として得べき無し。
今日のところは、とても大切なところです。黄檗禅師がこの伝心法要で、いろいろな理屈は説かず、ただ、坐禅のことだけを、坐禅はこういう方向に組めと、坐禅はこういう方向にすっと真直ぐに行けと。直指人心、見性成仏という達磨さん以来の旗印の通り、直に我々の心を指さして、成仏に連れて行ってくださる。
唯、直下頓に自心本来是れ仏なりと了して。
即今です。今ここで、この自分の心が、本来これ仏なりと分かれば、ということです。初めての方はぴんと来ないかもしれませんが、われわれはすでに悟っています。すでに成仏しています。ただそれに気が付いていないだけ。そのために坐禅を組む。ここは坐禅で自我の底を抜いたところからの見方ですが、この心が、心というのは意識や、判断や、解釈、そういったことではなくて、仏心、無心、或いは三昧の境地。そういうふうに取ってください。
それも、仏心や無心というのは、これから皆さんが修行してそうなるわけではありません、すでに皆さんは無心です。だから私の声が今聞こえている。何にも難しいことはありません。即今、今ここで、自分の心が仏なりと分かれば、
一法の得べき無く、一法の修すべき無し。
何一つ、皆さんは得ることがありません。一法の得べき無し。何一つ得るものはない。坐禅を組んで何かを得るのではなく、坐禅は捨て去る行為です。捨てて捨てて、何にも無くなる。今ここで、自分がこのままで仏なんだということに気が付いたら、何にもこれから得る必要がない。得るべきものも何もない。修業して何かを得る。そういったことも無い。
之は是れ無上の道なり。
これが、最高の道である。皆さんはすでに悟っています。いろいろ悲しみもあれば、迷いもあれば、苦しみもある。そのままで最高の道です。それを無くして、自分の中のいろいろなものを無くして、そうなるのではなくて、それを抱えたまま、皆さんはすでに仏です。
之は是れ真如仏なり。
それが真如の仏であると。あるがままの真実の仏である。
学道に人祇怕る、
ただ皆さんが気を付けなければならないのは。
一念有ならば、即ち道と隔つことを。
ちょっとでも有ならば、遠く隔たってしまう。
念念無相。
一念一念無相である。無相というのもわかりづらい言葉ですが、有相というのが、今の皆さんの状態です。自分が世界を見ている。正面には仏様がいらっしゃる。ちょっと手前にロウソクがあって、線香立てがある。これが有相です。見台があって、高台があって、じゅうたんがあって、柱があり、梁がある。これが有相です。こう、有るように見える。それにたいして無相。これは、何にも実態がありません。本来空です。どこにも実態らしいものはない。だから、皆さん囚われるということです。念念、一念一念囚われず、
念念無為なる。即ち是れ仏なり。
有為というのは、縁起の中の存在という事です。相対的に、ふたつ眼で世の中をわれわれは見ている。片方では、善とみて、片方では悪とみる。善と悪をふたつ眼で見ている。片方では生、片方では死。生と死というものを分けて、ふたつに見ている。損得。男女。天地。主観客観。自分他人。総てを我々は、分けて見ている。分別です。本は一つです。一つということは、無いということです。それが無為。即ち是仏なり。真如のあるがままの仏である。今、私の声が聞こえている。これが真如仏の証拠です。今、目の前のテキストが見えている。これが皆さんが真如仏である証拠です。
学道の人、若し成仏を得んと欲せば。
皆さんが仏になろうと。禅では見性と言います。自分の根源を見る。自分とは何かということを知りたければ、
一切の仏法総て学することを用いざれ。
様々な本が出ています、学校でもいろいろ教えてくれます。お寺へ行けば、ありがたい説教を聞かせてくれる。そういったことを全て、学ぶ必要はありません。逆に学ぶなと。
唯、無求無著を学べ。
仏教学なんか学んでいる暇があったら、求めないということ、執著しない、囚われないこと、これを学べと。何も求めない。何ものにも囚われない。この二つ。仏教には多くの経典があって、様々なことが説かれています。ただお釈迦さまは、これを言いたいということは何も持っていませんでした。お釈迦さまは、菩提樹の下で悟りを開かれて、平安の境地に到った。ものすごく楽になった。もう生きていようが死んでいようが、自分が金持ちであろうが貧乏であろうが、自分が犬であろうが猫であろうが、極楽にいようが地獄にいようが、まったく平安。その平安の境地を皆さんに伝えたい。これがお釈迦様の願いです。そのためには、仏教学なんか勉強する必要はありません。ただ求めることなかれ。求めない。執著しない。囚われない。この二つだけ。
求むること無くんば即ち心生ぜず。
今日初心の方には、数息観を説明いたしました。あれは、数と一体になる行為です。自分が数を数えているようではだめです。自分なんてのはいらない。数が数を数える。数だけになる。一つになる。そうすると、すっと無くなります。お釈迦様の得た平安の境地がわかります。随息観をしてられる方、自分が息を見つめているようでは、はなしになりません。自分が、息を、見つめる。三つになってしまっています、ただ息になりきる。ハー、スー、ハー、スー。すっと三昧に入ります。無字を拈提している人。自分は必要ない。無地だけあればいい。ムー、と。何も学ぶ必要はありません。ただ、どうしても我々は、ある境地を求めてしまう。何か素晴らしい境涯があるんじゃないか。求めてしまう。そうじゃない。今言ったことは全部、自分と世界、自分と数、自分と呼吸、自分と無字、これが一つになる。一如になる。一体になる。一体になってスッと消え去る。
求めている限り、それは対象です。どんなに素晴らしいものであっても、求めている限りは、自分と求められるもの、二つになってしまいます。一体になる、一如になる、そのためには何も求めない。
何かを求める。そうすると、この世界というのは、生滅の世界です。生まれたり死んだり、そういう生滅の、無常の世界です。何にも求めない。そうすると今ここに戻ってきます。そして一体になります。求めてはいけません。
著すること無くんば即ち心滅せず。
執著、とらわれ、何かに囚われている限り、それを欲しいと思っている自分がいる。欲しい惜しい憎い可愛い。我われは様々なものに囚われています。一番のとらわれは考え方です。思い、判断、解釈、分別。そういったものを全て放下する、投げ捨ててしまう。とらわれることがなければ、この心は消滅の世界を離れることができる。
不生不滅即ち是れ仏なり。
この後読んでいただく般若心経、不生不滅と。生ずることも無ければ、滅することも無い。皆さんは、40年前、50年前、60年前、あるときオギャーっとこの世に生まれたと思っている。そして、あと百年もせんうちに、死んでしまうと思っている。皆さんは、不生不滅です。生まれることも無い。皆さん生まれてない。生まれてないものが死ぬわけがない。ここは、皆さんの仏心、仏性、真如、法身、そこのところを説いています。皆さんは、確かにあと百年たったら、もう消滅している。ただ、皆さんの本心、それは不生不滅です。ただ、我見だけなくせばいいんです。そうすると、この世界、すべて自分になります。自我を無くせば、この世界すべて自分になります。不生不滅即ち是れ仏なり。
八萬四千の法門は八萬四千の煩悩に対す。
仏教では八万四千の教えがあると言われて今うが、それは我々に八万四千の煩悩があるからだと。
祇、是れ教化接引門なる。
まあ、方便のようなものであると。いろいろな経典、論書、そういったものは方便である。
本一切の法無し。
元来、お釈迦様には教えなどと言うものはなかった。それが2500年たって、これだけ膨大な教えができてしまった。
離すれば即ち是れ法なり。
ただ離れればいいんです。我見を離れればいいんです。念念無相。念念無為になればいいんです。離すれば即ち是れ法なり。これが無求、無著です。離れる。求めることから離れる。とらわれから離れる。
離を知る者是れ仏なり。
それを離れきった方が、仏様である。仏様は、この世の中がこうできている。人間というのはこういうものである。そんなことは何一つ説いていない。ただ、こうやれば平安になれるよ。こうやれば安心できるよ。それだけ教えてくださった。
但、一切の煩悩を離すれば、是れ法として得べき無し。
一切の煩悩を離すれば。ここでいう煩悩というのは、すべての見方、思い、考え方、分別、判断、解釈。それに、欲しい惜しい憎い可愛いの感情。考え方や、感情。特に一番邪魔になるのは、考え方です。感情は感情でつぶせます。坐禅は、欲しいから離れるために我慢を教える法門ではありません。憎いから離れるために、我慢を教える法門ではありません。欲しい。憎い。離れ方があります。ただ、難しいのが考え方。分別、判断、解釈。これから離れるのがとても難しい。一切の考え方から離れる。一切の分別心から離れる。それができれば、教えてして、何も得べきものはない。是れ法として得べき無し。
これから何かを得るということは、必要ないです。みな、皆さん持ってらっしゃる。持ってるというのも違うですけれども、もうそこにある。今、私の声が聞こえているでしょう。それです。古参の人は、旧参底の人は、分かってる。分かっているけど、成れない。仏教は、安心、平安になるための教えです。そのために坐禅を組んでもらいました。そして、一体になる。一如になる。そうなれば、今私が言ったことが、はっきりします。