伝心法要 第十

語録提唱

伝心法要 第十

2016-11-17

世人、諸仏は皆心法を伝うと道うを聞いて、将に心上に別に一法の証すべく取るべきあると謂(おも)い、遂に心を将って法を覓(もと)めて、心即ち是れ法、法即ち是心なることを知らず。心を将って更に心を求むべからず。千万劫を歴るも終に得る日なし。如(し)かず、当下無心ならんには。便ち是れ本法なり。力士の額内の珠に迷うて、外の向かって求覓(ぐべき)し、周く十方に行くも、終に得ること能わず。智者之を指さば、当時(そのかみ)自ら本珠の故(もと)の如くなるを見るが如し。故に学道の人自らの本心に迷うて、認めて仏と為さず、遂に外に向かって求覓して功用(くゆう)の行を起し、次第に依って証せんとし、歴劫勤求するも永く道を成ぜず。如かず、当下無心ならんには。

世人、諸仏は皆心法を伝うと道うを聞いて。
世の人々は、お釈迦様はじめ、諸仏方は皆、心の教えを伝えているんだということを聞いて。
将に心上に別に一法の証すべく取るべきあると謂い。
この心のほかに、別に真理があると思ってしまう。
遂に心を将って法を覓めて。
皆さんは今日、いろいろな悩みを持って、苦しみを持って、迷いを持って、その解決のために坐禅を組まれた。しかし、坐禅を組んでも何も得るものはありません。坐禅というのはそういうものではありません。何かを得るために坐禅を組むのではなく、捨てるために坐禅を組みます。捨てて捨てて、何も捨てるものが無くなり、己も無くなり世界も無くなり、無いということも無くなるまで捨てきる。これが坐禅です。
みな、悟りの体験、見性体験、そういう境地を求めて坐っているんで、いつまでたってもそこがそこに至れない。真理が真理を求めている。心が法を求めている。
心即ち是れ法、法即ち是れ心なることを知らず。
この心は自我ではありません。眼でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、体で働き、心で思う。これら六根の働き。六つの感覚器官の働き。眼耳鼻舌身意。その奥に、六根を主宰している自我が有ると皆さん思い違いをしている。聞いているのは自我じゃありません。見ているのは自我じゃありません。そこにあるのは見ているという事態。聞こえているという事態です。そこに俺が俺がと、我見さえなければ、すべてケリが付きます。この聞こえていることが真実である。見えていることが真実である。ただ、自我があるという誤解のために台無しになる。自我のない六根の働きが法です。
心を将って更に心を求むべからず。
火の神来たりて火を求む。ボーボーと燃えている火の神様が近づいてきて、すまんがたばこの火を貸してくれんかと。火の神は、己が火であることに気が付いていません。風の神は、己が風であることに気が付いていません。皆さんは、自分が心であるということに気が付いていない。心を持って更に心を求むべからず。求めているそれが求められるものである。自分が坐るのではない。坐禅が坐禅する。自分が数えるのではなく、数が数を数える。それが、それをする。成りきった境地です。
千万劫を歴るも終に得る日なし。
心でもって心を求めているうちは、どれだけ修業しても、遂にわかることはない。
如かず、当下無心ならんには。便ち是れ本法なり。
今ここでいきなり無心になる。すでに無心であるこの様子に気づく。
力士の額内の珠に迷うて、外に向かって求覓し。周く十方に行くも、終に得ること能わず。智者之を指さば、当時自ら本珠の故の如くなるを見るが如し
インドには額の中央に宝石を埋めている方がいます。ある力自慢のものが、珠が無くなってしまったと、あちこちを探す。どうしても見つからない。ある賢者がこう指さして、お前探すまでもなく、額に珠があるよと教えてくれる。皆さんの心の事です。無心のことです。無心を求めて坐っている方は、この力士と同じです。誤解しています。失ってなどいません、即今無心です。
故に学道の人自らの本心に迷うて、認めて仏と為さず、遂に外に向かって求覓して功用の行を起し。
学道の人とは、皆さんのことです。修業する人が、自分のこの本心、心というものを誤解して、仏を求め、無心を求める。即今、即今とは思慮分別の入らない今の様子です。即今が仏である、ということを認めず、そしてあちこち探しまわる。いろいろな修行をしても何にもならない。
次第に依って証せんとし、歴劫勤求するも永く道を成ぜず。
あの修行をし、この修行をし、こういう坐禅をやったらいいんじゃないか、ああいう坐禅をやったらいいんじゃないかと修業しても、結局道を得ることができない。まずは、自分は悟っているということを信じてください。自分は救われているということを信じてください。
如かず、当下無心ならんには。
ここでいきなり無心になる。今、私の声が聞こえている、あ、これが無心か。外の車の音が聞こえている。これが無心か。この六根の働き、目でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、舌で味わい、体で感じて、心で思う。この六根の働きが、悟りです。この六根の働きを、六根の働きのまま、こう手放す。開放してしまう。そして、そこにそれを主宰しているような自我があると思わない。ただ六根の働きがあるだけです。この六根の働きの中に自我さえなければ、それでもう卒業です。無字の公案を見ている方に無を持ってこいと言う。無を持って来てほしい。あなたはいらない。そういうことです。無字の拈提をしている方、あなたはいりません。