伝心法要 第九

語録提唱

伝心法要 第九

2016-11-2

又云く、是の法は平等にして高下あること無し。是を菩提と名づくと。即ち此れ本源清浄の心にして、衆生諸仏、世界山河(せんが)、有相無相、遍十方界と一切平等にして、彼我の相無し。此の本源清浄の心、常に自ずから円明にして遍く照らすも、世人知らずして、祇、見聞覚知を認めて心と為して、見聞覚知の為に覆わる。所以に、精明の本体を覩(み)ず。但だ、直下無心ならば本体自ずから現ずること、大日輪の虚空に昇って遍く十方を照らして、更に障礙なきが如し。故に学道の人、唯だ見聞覚知を認めて施為(せい)動作するも、見聞覚知を空却せば、即ち心路絶して入処なし。但だ、見聞覚知の処に於いてのみ本心を認む。然も本心は見聞覚知に属せず。亦、見聞覚知を離れず。但だ、見聞覚知の上に於いて見解を起こすこと莫れ。亦、見聞覚知の上に於いて念を動ずること莫れ。亦、見聞覚知を離れて心を覓(もと)むること莫れ。亦、見聞覚知を捨てて法を取ること莫れ。即せず離せず、住せず著せずんば、縦横自在にして道場に非ざること無し。

又云く、是の法は平等にして高下あること無し。
いま平等差別というと、人種の平等であるとか、差別であるとかに使いますが、仏教語でいう平等というのは、絶対ということです。対を絶す。つまり一つということです。二つが対です。絶対というのは、一つということです。是の法は平等にして高下あること無し。優れているとか、劣っているとか、そんな差別はない。我われはどうしても、あの人は見性して、悟りを開いて、優れた人である。自分は、まだ見性もせんと、劣っておると、そういうふうに考えがちですが、本来の処では、高下はありません。
是を菩提と名づくと。
これを悟りと名付けると。
即ち此れ本源清浄の心にして。
釈尊が悟った法は、インド、中国、日本でどれだけの方が悟られたか。その悟りの法とは、元来清浄の心であると。この心というのが、平等にして高下あることのない法です。本来、清浄な法です。それを心と名付けます。
衆生諸仏、世界山河、有相無相。
心、無心、本源清浄心。この心は迷った我われも、悟った仏も、まあ地球全て、形あるものも形ないものも。
遍十方界と一切平等にして、彼我の相無し。
この大宇宙、ただ一つの心のみ。この大宇宙というのは、バラバラに見えます。この本堂だけ見ても、30人からの人がいて、いろいろなものがある。こう分かれていることを差別と言います。今の言葉で相対と言います。差別、相対の世界そのままに平等、絶対です。色即是空、空即是色です。この大宇宙は、唯一つの心だけであり、彼我の相無し。主観も客観もない。我も世界もない。
此の本源清浄の心、常に自ずから円明にして遍く照らすも。
この本来清浄な心は外にはありません。大宇宙すべてこの心ですけれども、この心というのは、自分の内側に見てください。太陽のようにすべてを照らしている。皆さんは今お手元のテキストが見えている。これが円明にして照らしている様子です。私の声が聞こえている。これが円明にして照らしている境涯です。
世人知らずして、祇、見聞覚知を認めて心と為して、見聞覚知の為に覆わる。所以に精明の本体を観ず。
見聞覚知というのは、目でものを見、耳で音を聞き、鼻でにおいをかぎ、舌で味わい、体で感じて、心で思う。六感の働きです。仏教では、六根の働きと言います。皆さんはこれが心であると思って、この六根のために目をふさがれている。いつも私が言っていることと、逆のことを言っておられる様に思うでしょう。六根の働きが心である。そう思うから、そのために目をふさがれてしまっている。すばらしいこの心がわからん。これは後でひっくり返ります。
但だ、直下無心ならば本体自ずから現ずること、大日輪の虚空に昇って遍く十方を照らして、更に障礙なきが如し。
もうああだこうだはいいと。もうこの場で直に無心になってしまう。ほいっと無心になってしまう。皆さんはもう無心です。その証拠に、私の声が聞こえている。聞こうと思わなくても、外で自動車がブーッと動き出したのが聞こえる。何の心構えもなく聞こえてしまう。無心の証拠です。その無心に今ここでなればと。実はもうなっています。気が付かないだけ。この気が付く方法を、あれやこれや話をしています。
この心の本体。心が現れること、ちょうど太陽が天に昇り十法世界を照らして、何の差し障りがないようなものであると。
故に学道の人、唯だ見聞覚知を認めて施為動作するも。見聞覚知を空却せば、即ち心路絶して入処なし。
学道の人、皆さんです。この六感の働き、六根の働きを認めて、あれやこれやしているけれども、この六根の働きが無くなってしまったならば、即ち心路絶して入処なし。ちょっとわかりづらい。この六根が無くなってしまうと、悟りへの入り口が無くなってしまう。
初めはこの六根を認めているがために、眼をつぶされていると言っている。そしてここでは、見聞覚知、六根の働きが無くなれば、悟りへの入り口が無くなってしまうと言っている。ここです。
但だ、見聞覚知の処に於いてのみ本心を認む。
この六根の働きの処だけが、今聞こえている所だけに、今見ている所だけに、心、仏心仏性、これを認めるべきであると。今聞こえている。今見えている。ちょっと蒸し暑いかなと感じている。足が痛いなと感じている。和尚は何の話をしているのかなと考えている。これが六根の働きです。これだけ。ここだけに、本当のことがあります。
然も本心は見聞覚知に属せず。
かといって、この六根の働きに、本心があるわけじゃない。本心はこの六根の働きではない。
亦、見聞覚知を離れず。
しかし、この六根の働きを離れない。どっちなんだ。次が大切なところです。
但だ、見聞覚知の上に於いて見解を起こすこと莫れ。
見たり聞いたりしたところに、思いを入れるな。考え方を入れるな。見解、ここでは見解とありますが、端的に見と言います。総ての考え方です。すべての考え方、見解、見。これは、すべて誤っています。総ての見解は誤解です。
自分が生きていると思っているのも誤っています。自分は死んでいると思うのも、間違っています。自分は有ると思うのも、間違っています。自分は無いと思うのも、間違っています。自分は男だと思っているのも、女だと思っているのも間違っています。善悪、損得、上下、左右、すべて間違っています。
平等、絶対です。対を絶した一つです。差別のことを相対と言います。二つあること。二つ眼で世の中を見る。すべての考え方は、誤解です。勘違いです。どんなに一生懸命考えても、立派なことが分かったとしても、それは誤解です。仏は教義などが説きたかったのでは有りません。皆に平安になってもらいたかった。仏が説いているのは、平安です。そのためには、とらわれから離れなければならない。執著から離れなければならない。一番の執著は見です。見解です。欲しい惜しい憎い可愛い。いろいろな執著がありますが、一番の執著は考え方です。思いです。これを離れる。見聞覚知の上に於いて見解を起こすこと莫れ。
亦、見聞覚知の上に於いて念を動ずること莫れ。
念を動かさない。仏教学で八正道というのがあります。その七番目に正念というのがあります。正しい念。念を動ずることなかれの念です。正しい念をわれわれは修めなければならない。正しい念というのは、どういう念であろうか。正しい念。正念のあとに正定、正しい禅定が来ます。正定が八正道の終着点です。どういう念が正しい念か。判断しないで、いま己が行っていることに意識を集める。分別せずに、いま己が行っていることに意識を集中する。今日初めていらした方に、数息観を説明しました。一つから十まで数える。数えていても、いろいろ思い、雑念が湧く。ああ、うまく数えられん、今はうまく数えられた。これが判断です。それを止めて、一切やめて、ただ数を数える。そこに思いを置く。無字の拈提をしている人は、有るの無いの、ああのこうのを離れて、分別を離れて、ただム―、とやる。うまい無地の拈提も、下手な無地の拈提も、正しい随息観も、間違った随息観も、綺麗な数息観も、汚い数息観もありません。これが、正念です。これが、念を動じないということです。念を動ずるということは、分別するということです。判断するということ、解釈するということです。
亦、見聞覚知を離れて心を覓むること莫れ。
どうしても何かあると思ってしまう。求めてしまう。求めている限り、そのものは向こうへ行ってしまいます。求めない。何にも求めない。悟りも求めない、見性も求めない、心も求めない。この六根の働き、みな自分のことです。見えている。物が向こうにあると思う。天井を見上げれば、天井はあそこにあると思う。そうじゃあない。皆さんのところにある。こうパンパン音が聞こえる。私が手をたたいて音が聞こえていると思っている。そうじゃない。これ、皆さんのところにある。自分が鳴っている。六根の働き、これは皆さんのところにある。外に何も求めない。ただ素直に、六根の働きのままに、見えたら見えたまま、聞こえたら聞こえたままにしておく。ここのところが、坐禅の急所です。
こう外からの座禅を組まない。数を数えていて、数えている自分を確認しない。数えているという自分がいる、確認している自分がいる。無地を拈提している自分がいる、うまく無地を拈提してるかなあと確認している自分がいる。これが外からの坐禅です。内側から持っていく。日常生活もすべてそうです。こう、内側から持っていく。六根の働きを外に見ない。六根の働きのまま、内側から持っていく。ここのところうまく言えない、うまく言えないけれども、六根の働きのまま、内側から持っていく。
亦、見聞覚知を捨てて法を取ること莫れ。
この六根の働きを捨てて、教えなどと言うものはない。六根の働きではない、でもそれを離れてもいない。即せず離せず。初心指導で、念が湧いた時の心構えとして、追わず払わずと申し上げた。追いかけない、また払わないと説明しました。追わず、払わず。六根の働きもそうです。追わず払わず。即せず離せず。
住せず著せずんば、縦横自在にして道場に非ざること無し。
住するというのは、とどまるということです。著するというのは、執著する、とらわれるということです。とどまらない、六根の働きにとどまらない。聞いたら聞いたまま。私の言葉を聞いているとき、その前の言葉を引きずっている人はいません。常に即今即今、今ここ、今ここです。その今ここ今ここのまま、スーッと流れる。
そういうふうに内側から持っていく。コロコロコローっと球が坂道を転がるように、とらわれることなくスーッと行くことができれば、今自分がやっていることすべて修業です。道場に非ざること無し。