伝心法要 第四

語録提唱

伝心法要 第四

2016-08-8

若し仏を観じて清浄光明解脱の相を作(な)し、衆生を観じて垢濁(くじょく)暗昧生死の相を作さば、此の解を作す者は、河沙劫(がしゃごう)を歴(ふ)るも、終に菩提を得ず。相に著するが為の故なり。只此の一心、更に微塵許りの法も得べきなし、即心是れ仏なり。如今、学道の人は此の心体を悟らず、便ち心上に於いて心を生じ、外に向かって仏を求め、相に著して修行す。皆是れ悪法にして、菩提の道に非ず。

若し仏を観じて清浄光明解脱の相を作し。
われわれ衆生は坐禅を組んで仏に近づこうとする。その仏を、美しく、清浄な光輝いた存在であると考える。
衆生を観じて垢濁暗昧生死の相を作さば、
衆生、われわれ迷える者たちです。我々は垢にまみれ穢れ、そして暗愚で、生死の中にいると考える。そして仏を求め、自らを捨てようとしている。
此の解を作す者は、河沙劫を歴るも、終に菩提を得ず。
河沙劫というのは、永遠の時間です。こんな考えの者は、永遠の時間修業しても、ついに悟ることができない。仏と、我々は、ただ一心です。仏心と言っても、無心と言ってもいい。この一心、まったく同じです。それを仏は清らかで光り輝き生死から解脱して、われわれは垢にまみれ暗闇におって生死輪廻しているというような、此の解をなす者は、河沙劫を歴るも、終に菩提を得ず。
我われは、思う前に考える前に三昧の状態にいます。もう皆さんは三昧に入っている。大三昧を発得している。ただそれは、皆さんの思いの前です。え?と思ったところから、もう迷いの世界に落ちている。それ以前のことです。すでに悟っているんだけれども、その悟りを思いが見えなくしてしまっている。思い以前は、思いでは分からない。当たり前です。
相に著するが為の故なり。
相に著する。執著しとるから、悟りを得ることができない。執著、欲しい、惜しい、憎い、可愛い。しかし一番の執著というのは、欲得のことではありません。此の解をなす者は、とあります。此の解、見解です。見です。見方、考え方。執著というのは、あれが欲しい、これが欲しい。そういったことではありません。頭で物事を分別、解釈することです。これが執著です。全ての見解が執着です。全ての見解は誤解です。相に著するということは、そういうことです。
私たちは本来無心です。私がこう話していても、今のように救急車の音がピーポーピーポー鳴ったら、聞こうと思わなくても聞こえちゃう。皆さんはそういうふうにできている。すでに無心だからです。それが思う前のことです。今聞こえたのは、思う前の、見解の前の、分別、解釈の前の事態です。
今下で電話が鳴っている。聞くまいとしても聞こえてしまう。自分の分別、判断、解釈。その前の出来事です。そこに目をつける。皆さんはすでに無心です。今私の声が聞こえている。一体になっているからです。目の前のものが見える。一体になっているからです。自分が、私の声を聴いているんじゃありません。この声がある。それを分別解釈すると、私が、住職の声を、聴く、バラバラになります。これを無理に一つにするんではなくて、それ以前に行けばいい。ただこの見解を止める。見を止める。分別を止める。それだけです。
坐禅を組んでいて、数息観をやっている人は、数とひとつに成ろう一体に成ろうと、無字をやっている人は、無と一体に成ろう一体に成ろうと、こう気張って坐っとる。そうじゃない。ヒトーツ、という事実がある。いつまでたっても一体になれないのは、己の坐禅を見ているからです。
我われは日常的に、無限の情報が、目や耳や鼻や口から、あるいは体の感覚から入ってきている。無限のものがこう入ってきている。でも全く困らない。それなのになぜ、数一つが数えられないのか。数を見ているからです。新幹線が、目の前をシュッと走る。あんまり早くて見えない。そこで新幹線に乗ってしまう。そうすれば常に新幹線と一体です。同様に数というものに、乗ってしまう。ヒトーツ、フターツ、ミッツ。数えているという事実がある。これを外から見ているもう一人の自分がいる。見ている間はいつまでたっても、一体に成れない。見ている自分がいるから、ダメなんです。乗ってしまう。数という電車に乗ってしまう。ヒトーツ、フターツ、と数に乗ってしまう。
それを成りきると言います。最初は見とっていいです。最初は自分を、自己確認しながらの坐禅で結構です。ム―、っとやって、きちんと無字の拈提ができているか、どうしても確認してしまう。最初のうちはそれで結構です。ただある程度いきましたら、確認なんてことはせずに、無に乗ってしまう。無に成ってしまう。ここでいう無というのは、ムーっと成りきった境涯のことですが、無の境涯というのは眺めることができない、振り返ることができない、観察することができません。しかし、成ることはできる。数息観もそうです。数息観で、三昧になった自分、三昧になった状態というのは見ることはできません。振り返ることはできません。ただ、数に成ることはできる。無に成ることはできる。見ないで、乗る。見ないで、成る。いつまでも、外からの坐禅をやらない、こう内側から持っていく。
只此の一心、更に微塵許りの法も得べきなし。
一心だけです。有るのは此の心。自分が一体に成るんじゃない。一体になっているのに、それを自我が邪魔しているので、自我を殺すんです。自我さえなければ、ただそれ、ただこれ。なにひとつ、得るものはありません。逆に捨てる。分別心をなくす。解釈しない。あれこれの見解を持たない。
我々の相対的なものの見方、これが分別です。生と死を分けている。生死は本来同じものです。生きているときの安心は生きていること。死ぬときの安心は死ぬことです。何にも得るものはない。逆に捨てて捨てて、己を捨てて、すべての見方、生きている死んでいる、良い悪い、損得、有無。そういった二つ心、これを全て投げ捨てて、ただそのものに成る。今ここに落ち着く。
即身是れ仏なり。
今ここの、そのままの自分が仏です。外でバイクの音が聞こえている。それが仏です。目の前のものが見えている。それが仏です。更に微塵ばかりの法も得べきなし。
如今、学道の人は此の心体を悟らず。
修業する人は、この心、これだけ分かればいいんです。そしてこの心というのが、思い以前にあるから、どうしても届かない。それを思いで何とかしようとしている。意識でどうにかなるんじゃないかと思っている。それ以前のことです。それが心体、心の本体です。
便ち心上に於いて心を生じ。
心って何だろうなあ。思っているそれが心です。とにかく皆さんが、あれこれ思う以前のところ。
外に向かって仏を求め。
どうしても何かあるような気がしてしまう。何か立派な境地があるような気がする。もしあるとしたら、成りきったところ、数に成りきったところ、無に成りきったところ。そこだけです。外側に求めても何にもありません。自分のほかに、自分以外に何かを求める。これを全てやめる。何も求めない。真理も求めない。仏も求めない。見性も求めない。悟りも求めない。何も求めないと、ここに帰ってきます。自分に帰ります。とにかく坐禅をしているときは、何も求めない。一体に成りたいということも邪魔なことです。一体感も求めない。一如に成りたいということも求めない。何も求めなければ、すっとそこに収まります。
相に著して修行す。
自分はいつまでも生死の中にいると、いつまでも迷いの中にいると。自分が迷っていると思っている。みなさん全く迷っていない。迷っているのは、皆さんの思いだけ。思い以前のそれ。今聞いた時のそれ。もうすでに悟っています。すでに救われています。
皆是れ悪法にして、菩提の道に非ず。
そんな修行をしていては、猫の年が来ても本当のところは分からない。みなさんは、すでに仏です。火の神来たりて火を求むという言葉があります。ボーボーと燃えた火の神様がやってきて、松明に火をつけたいんだけれども火を貸してくれないか。火の神は、己の炎に気づけない。自分の仏心仏性、心、法身、真如、こういったものは見えません。感じることもできません。でも皆さんのところで、生き生きと働いている。もうすでに仏心のど真ん中です。ただそれは、思いの前です。そこに目をつけて坐禅を組んでください。
毎週同じことを説きます。これ、黄檗禅師が毎回同じことを仰っているんです。言葉は少し違う。でも黄檗禅師の言いたいことは一つだけです。そこのところを、こっちからあっちから、ずーっと説いていきます。坐禅を組んでいる人のほとんどが、坐禅の方向が全然違う。明後日の方向を向いて、鉄砲を撃っている。目の前にある。ここにある。それを毎回お話しさせていただきます。