伝心法要 第二

語録提唱

伝心法要 第二

2016-06-2

此の心即ち是れ仏、仏即ち是れ衆生なり。衆生たる時此の心減ぜず、諸仏たる時此の心添(ま)さず、乃至、六度万行、河沙(がしゃ)の功徳も、本自から具足す。若し決定(けつじょう)して此れは是れ仏なりと信ぜずして、相に著して修行し、以って功用(くゆう)を求めんと欲せば、皆な是れ妄想にして、道と相乖く。此の心即ち是れ仏、更に別の仏なく、亦別の心なし。此の心は明浄なること、猶(なお)虚空の一点の相貌なきが如し。

此の心即ち是れ仏、
皆さんちょっと目を閉じてください。今私が話している。それを自分が聞いている。そうじゃあない。もっと端的にこの声を聞いてみてください。あ、あ。聴く自分も話す私もなく、ただ音がそこにあります。あ、あ。音があります。これが心です。主観もなければ客観もない。自分もいなければ、世界もいない。ただ、あ、と言えば、皆さんのところに、あ、となる。黙ってしまえば、なにもない。
用もないのに、バイクの音が聞こえる。聞きたくもないのに、横断歩道の音が聞こえる。これが心です。そして、それが仏です。
公共というものがあります。例えば、運送。道路があり、電車があり、飛行機がある。これは公共のものです。あと十分早く出てくれたら会社に楽に間に合うのに。あと十分遅く走ってくれれば、十分朝寝ができるのに、と思っても公共のものは変わりません。自分の思う通りにならない。
この自分という心身、これも実は公共のものです。これを私有しない。
私がしゃべれば聞こえる。テキストを見れば見える。線香を焚けば匂いがする。お茶を飲めば味がする。体を触れば感覚がある。ものを思うことができる。それが心であり、仏です。ただ要らないものがひとつある。皆さんが勘違いしていることがひとつある。主体としての自分がいると思っている。自分、俺、私。それが見ていると思っている。それが聞いていると思っている。それが考えていると思っている。この心身を私有している。この自我意識さえ取れれば、すべてけりがつきます。
自分なんていうものは、私なんていうものは、この脳みその濁り汁です。頭からちょっと滲み出した濁り汁です。どこにもありません。ただ話せば聞こえる。それだけです。自分が聞いているんじゃない。あ、と言えば、あ、が皆さんのところにある。
私ではないんです。公なんです。公共のものですから、それを自分の思うようにしようとしない。座禅中に、あれやこれやの思いが出てくる。何とかしようと思う。何とか心を静めて、無心になろうとする。
皆さんそれぞれの不安を抱えて、洪福寺までいらしている。その不安を、心を静めることによって、何とかしようと思っている。そこに間違えがある。自分の思うように、これをしようと思っている。自分の理想通りにこれをしようと思っている。不安が無くなればいいな。病気が治ればいいな。死にたくないな。
この心身は公共です。自分じゃありません。思うまい思うまいとしたって、思ってしまう。自分じゃないからです。自分の思いだったら、自分で思いを消せる。自分の思いでないから、この出てくる思いを消せない。座禅中に、思いを消そうということを一切しない。
三祖の信心銘に、いたずらに念静に労す、とあります。皆さん坐禅中に心を静かにしよう、心を鎮めようとする。これが間違っている。公のものです。放り出してしまう。もう好きなようにしてもらう。
念仏信者のように任せきってしまう。浄土真宗に妙好人と呼ばれる人たちがいます。まあ、念仏で悟りを開かれた方。その中に、六連島のお軽さんという方がいらした、明治維新のあたりの方です。そのお軽さんがこんなことを言っています。阿弥陀さんは助けよう、助けようと言ってくれている。もうほっといても助けてくれる。じゃあ助けられてしまおう。もう往生は投げた投げた。弥陀に任せきって何もしない。往生というのは、私のものではありません。阿弥陀のものです。皆さんというのは、皆さんのものではありません。天地のものです。自分の思うように使わない。投げた投げた。放下、放下。
此の心即ち是れ仏、仏即ち是れ衆生なり。
心と仏と衆生、何一つ違わない。お釈迦さんにだって、目は横に二つ、鼻は縦に一つ。同じ心身です。
衆生たる時此の心減ぜず、諸仏たる時此の心添さず。
皆さんもお釈迦さまも、「あ」と言えば「あ」と聞こえる。何一つ違わない。
乃至、六度万行、河沙の功徳も、本自から具足して、修添を仮らず。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。六波羅蜜という大乗仏教の修業がありますが、そんなものはもともとここに備わっている。皆さんはすでに悟っています。それに気が付いていないだけ。私たちが、三昧になって、大三昧を発得して、そしてある事に気が付く。三昧というのは、一つになることです。天地と我と同根、万物と我と一体。一如になることです。一体になることです。私の声、聞こえてるでしょう。もう一体になっているんです。でもそれに気づけない。この心身を私してるから。自分だと思ってるから。自我意識がなくなれば何の修行もいらない。付け加えることが一つもない。本自から具足して、修添を仮らず。もうすでに皆さん出来上がっている。ただ俺が、というそれだけが邪魔をしている。
縁に遇わば即ち施し,縁息めば即ち寂たり。
私が話せば皆さんのところに私の言葉がある。止めればない。
若し決定して此れは是れ仏なりと信ぜずして、相に著して修業し、以って功用を求めんと欲せば、皆な是れ妄想にして、道と相乖く。
これだけなんです。見れば見える、ということは、三昧になっているんです。見えているというのは、一体になっているということです。皆さんが何かを見て、それが見える。それは一体になっているんです。これを信じてください。これが仏なんです。これが心なんです。
縁に遇わば即ち施し,縁息めば即ち寂たり、と。因縁という言葉があります。縁起という言葉があります。自我というものはありません。この世界も何の実態もない。空が空にぶつがる。実体のないものが実体のないものに相対して、こうある。これが因縁です。実体や自我は何にもない。有るのは、あえて言えば、因縁の法だけ、縁起の法だけです。
ここのところ、自分なんてものはないんだと言われると何となく物足りない。こないだも電話で、全く知らない人から、魂はありますか?私が死んだら、何かに生まれ変わることができますかという質問をされました。世間があまり有る有るというものですから、あえて断見的に言います、魂などというものはありません。霊魂などというものはありません。皆さんが死んだ後、霊魂が残って、それが次の世界に生まれ変わると。仏教というと、そういう教えだという誤解がはびこっています。そうじゃない。本当は有るも無いも無い。生も死も、仏の中の仏の出来事です。
生まれる、生きる、死ぬ。皆仏の中の出来事です。死んだからと言って何一つ変わらない。この私、俺、というものを真ん中に置いて考えるから、生まれるの死ぬのというのが出てきます。般若心経の不生不滅というのは、生まれないんです。私たちは生まれていないんです。世界の何も生じていないんです。私たちは死なないんです。世界の何も滅しないんです。オギャーと生まれてきたじゃないか。うんごっつーと死んでいくじゃないかと。自分を自我を真ん中に置くからです。これを外すことができれば、すべて分かります。
坐禅の時も、自分の思うとおりに、自分の理想の座禅を組もうなんて思わずに。今日坐禅中に窓が一つ開いていました。街道に挟まれた寺ですから、ものすごくうるさかった。あれでいいんです。うるさいときはうるさい坐禅を組む。アーうるさいなー、とそこですっとおわる。すべての音はすべて自分です。
此の心即ち是れ仏、更に別の仏なく、亦別の心なし。
これっきりです。今聞こえてるこれっきり。今ここ。そして、私のところにこの声はあるわけじゃない。私の声を聞いてるわけじゃない。皆さん所にある。
此の心は明浄なること、猶虚空の一点の相貌なきが如し。
この空間のようなものである。大宇宙のようなものであると。こうやって、ぎゅっと空間を握る。さて何か生まれたか?パッと放り出す。何か消えましたか?この目前の空間、何か変わりましたか。なにひとつ変わらない。
禅というのは、難しいものではありません。仏教というのは難しいものではありません。ただ自分だけ外す。私というものが錯覚である。それを本当にわかる時がきます。たとえば道を歩いていて、ありゃっと気が付きます。なんもなかったじゃないか。気が付きます。必ず気が付きます。
そういう指導をします。遠回りばっかりしとる。自分をきれいにしよう、きれいにしようと。もうかき混ぜてばっかりいるからますます濁る。何もしない。手出しをしない。素直にそういう坐禅に参じてください。