無門関四十一則 達磨安心(だるまあんじん)

語録提唱

無門関四十一則 達磨安心(だるまあんじん)

2016-03-3

四十一則 達磨安心(だるまあんじん)
達磨面壁(めんぺき)す。二祖雪に立ち,臂(ひじ)を断って云く,弟子心未(いま)だ安(やす)からず,乞(こ)う師安心(あんじん)せしめよ。磨云く,心を将(も)ち来たれ,汝が為に安んぜん。祖云く,心を覓(もと)むるに了(つい)に不可(ふか)得(とく)なり。磨云く,汝が為に安心し竟(おわ)んぬ。
無門曰く,欠(けつ)歯(し)の老胡(ろうこ),十万里の海を航(わた)りて特特として来たる。謂(いっ)つべし是れ風無きに浪を起こす。末後(まつご)一箇の門人を接得するに,又た却(かえ)って六根不具。咦(いい),謝(しゃ)三(さぶ)郎(ろう)四字(よじ)を識らず。
 頌(じゅ)に曰く,
西来(せいらい)直指(じきし) ,事(じ)は嘱(しょく)するに因(よ)って起る。
叢林(そうりん)を撓聒(にょうかつ)するは,元来是れ你(なんじ)。
初めに簡単に筋をお話ししておきます。インドから中国に渡ってきた達磨大師が嵩山で壁に向かってずっと坐禅を組んでいらした。ある日、後の二祖である神光が雪の中に立って、左肘を自ら斬って達磨大師に差し出して言った。私の心はいまだ安らかではありません。師よ私を安心させてください。達磨が答えて言うには、その心を持ってこい、あなたのために安心させてやろう。神光が答えて、心を見つけようとしたけれど、どこにも有りませんでした。達磨が言った。あなたのために安心させ終わった。
そこを無門が評して、歯の抜けた達磨が十万里の海を得意然として渡ってきた。これは風もないのに波を起こすようなものである。どうにか一人の門人を叩き出すことができたけれども五体満足ではなかった。ああ。無知な人間、言葉もわからない。
そこを漢詩に詠って、インドからやってきて、心を直接指さす。あれこれの問題は法を伝えたから起こった。後々修業道場を混乱させたのは、達磨よあなたである。
達磨面壁す。この達磨大師は南インドの王族の生まれであったと伝わっています。般若多羅(はんにゃたら)尊者の下で悟りを開き中国に渡った。そして始め梁の武帝と問答を行ったが、武帝ついに適わず、達磨大師は嵩山に籠もり九年の面壁に入ります。その嵩山での話です。
達磨面壁す。二祖雪に立ち,臂を断って云く,弟子心未だ安からず,乞う師安心せしめよ。神光は始め儒学や老荘を学んだそうです。その後仏教学を様々学びこの頃にはあと一歩、もうギリギリのところまで来ていた。そこで達磨大師に最後の決着を求めて嵩山に上った。厳寒の二月雪に立ち法を求めたが、達磨大師は相手にしてくれない。そこで真心、覚悟を見せるため自ら肘を断ち安心の法を求めた。
今でも出家を希望する人は多くいます。ここに来て坊さんになりたいと相談をする方も随分いました。しかし、これは簡単に受け入れてはいけない。この修業は本当に大変です。体の苦しさだけではなく、自分の心をギリギリまで追い込まなければなりません。これは言葉にできない苦しさです。 
神光はその志の深さを示した後、法を求めた。どうしても心が安らかになりません、これを安らかにしてくださいと。この安心は誰もが求めるところです。皆さんもそのためにわざわざお運びいただいているのでしょう。しかし、答えを貰ったからといって、誰もがそこに気づくわけではありません。この神光のように徹底煮詰まっていなければいけません。神光の心はすでに何も纏っていない。裸の心で法を求めています。
磨云く,心を将ち来たれ,汝が為に安んぜん。祖云く,心を覓むるに了に不可得なり。磨云く,汝が為に安心し竟んぬ。
それに対して達磨大師は、それではその不安な心を持ってきなさい、そうすればそれを安んじてあげようと答えた。しかしどこをどう探しても自分の心が見つからない。
 私達の心というものは絶対の主体です。これは向こう側において眺めることができないものです。目というものは見るためのものです。振り返って目が目を見ることはできない。灯台の光はすべてを照らしますが、灯台は自ら己を照らすことはできない。心は絶対の主体ですから、振り返って自らを確認することができません。ここが難しいところです。
 火の神来たりて火を求む。自ら燃え盛っている火の神様がやってきて、松明にする火を分けてくれないかと求める。いやいや、あなたが火です。しかし火の神は、自己の火に気づくことができない。心とはそういったものです。心を覓むるに了に不可得なり。磨云く,汝が為に安心し竟んぬ。
神光は自らを徹底的に追い込んでいますから、この言葉でがらりと悟りを開いた。ここまで工夫に工夫を重ねて、心を練って、もう前にも進めず、後ろにも退れない。そこまで達していたからこの言葉で気が付いた。
無字の評にあるように、真っ赤に熱した鉄の球を呑みこみ、吐き出すことも呑みこむこともできない。ただ無ーッと。前にも進めず、後ろにも退れず、ただ今ここに無ーッと。ここまで行くと己の中に己がつぶれます。己を消し去ることができます。
 私たちは自分から自分がずれている。そして自分で自分を観察しすぎる。自分を脇からこう見てしまう。外から自分を見てしまう。たとえば自分の根源とは何だろうと考える。この考えるという行為は脇から、外から自分を見ている状態です。考えている限り、私たちは自分からずれています。古いテレビのように自分の影が脇に立つ。これを己に重ねる。すっと戻す。自分が自分に収まる。
 坐禅中、数息観が上手くできているか、丹田呼吸がきちんと行えているか、そんな確認はいりません。また雑念が沸いた、また数から気がそれた、そんなふうに外から自分を確認しない。無字と自分が、数と自分が離れてしまうのは、自分を見るからです。見ずに成る。自らぼうぼうと燃える。燃えている自分を確認しようとせず、ひたすら燃える。あれこれ自分を分析しない、解釈をしない、自分の様子を眺めない。ひたすら無ーッ。ただただヒトーツ。見ずに成る。ただ無字に成る。数に成る。心に徹する。心を覓むるに了に不可得なり。心というものは見ることはできません。ただ成ることはできます。三昧に入った己を見ることはできません。しかし三昧に成ることはできます。汝が為に安心し竟んぬ。見まわしているようではだめです。
 無門曰く,欠歯の老胡,十万里の海を航りて特特として来たる。謂つべし是れ風無きに浪を起こす。末後一箇の門人を接得するに,又た却って六根不具。咦,謝三郎四字を識らず。衆生本来仏。私たちはすでに仏です。それに気が付いていないだけです。犬は自分が犬であることを知らない。ただワンワン犬を生きている。犬は気が付いていないが犬です。すずめはチュンチュン、からすはカーカー。すずめはすずめに徹しています。ただ自覚はない。鳥は気が付いていないが鳥です。私たちは本来仏です。自覚のない仏です。このままで何一つ足りないものはない。足すべきものも引くべきものもない。このままでいい。そして、このままに成るために十年二十年坐りこむ。
 咦(いい),これは、ああ、とか悲しいとかいったことです。謝さんの家の三男坊、いろはも判らない。心は心の対象にならないから判らないのです。成りきるしかないところです。
心というなにか本体があるわけではありません。心には本体が無い。心は用(はた)らくだけです。今声を聴いているそれに何か実体があるわけではありません。心は用(はた)らきです。用らきというのはとても判りにくい言葉かもしれません。体(たい)と用(ゆう)、本体と用らき。聞く、見る、それが用らきです。考えている、それが用らきです。心を覓むるに了に不可得なり。
  頌に曰く,西来直指 ,事は嘱するに因って起る。叢林を撓聒するは,元来是れ你。インドから来てずばりと心を指さす。何べんも言いますが、この心は振り返っても判りません。心とは何だと思っているそれが心だからです。見ずに成る、振り返らずに成りきる。この辺の消息は、修行僧でもなかなか届かない。そこで臨済宗では公案を使って心を追い込む。公案のことを葛藤とも言います。達磨さんが二祖に法を伝えたからあれこれの葛藤が現在まで続いている。ありがたいことです。