第三十八則 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

語録提唱

第三十八則 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

2016-01-21

三十八 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

 五祖曰く,譬(たと)えば水牯牛(すいこぎゅう)の窓櫺(そうれい)を過ぐるが如く,頭角(ずかく)蹄(してい)都(す)べて過ぎ了(おわ)る,甚麼(なん)に因(よ)ってか尾巴(びは)過ぐることを得ざる。

 無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって顛倒(てんどう)して,一隻眼(いっせきげん)を著得(じゃくとく)し,一転語(いってんご)を下し得ば,以って上四に報じ,下三を資(たす)くべし。其れ或いは未だ然(しか)らずんば,更に須らく尾を照顧(しょうこ)して始めて得べし。

頌(じゅ)に曰く,

 過ぎ去れば抗塹(きょうぜん)に堕(お)ち,回(かえ)り来たれば却(かえ)って壞(やぶ)る。

者些(しゃし)の尾巴子,直に是れ甚(はなは)だ奇怪

五祖法演禅師が説法して言うには,喩えば水牛が格子窓の外を通りすぎるように,頭が通り過ぎ,角が通り過ぎ,四つ足,体が通り過ぎた。さて,どうしてしっぽだけが通り過ぎることが出来なかったのか。

そこを無門が評して言うには,ここのところをひっくり返して,悟りの眼を得て,悟りの言葉を下し得ば,四つの恩に報い,三界の衆生を助けることが出来る。もしここが判らないようであれば,しっぽをよく照顧して見よ。

これを漢詩で詠って曰く,通り過ぎれば深い穴に落ちる。来た路を引き返せば元も子もない。この小さなしっぽ,これが甚だ奇怪である。

牛が格子窓を通りすぎたという公案です。千七百の公案の中に難透難解が三十いくつかあります。その中でも得に八大難透というものがありますが,これはその一つです。

水牛が格子窓を通りすぎた。いつも言う通り何が出てこようと自分のことです。この牛というのは皆さんのことです。皆さんが通り過ぎた,格子窓を横切った。まず頭が通り過ぎた。思い,心,意識。それがまずすっと通り過ぎた。この則は十年,十五年と修行した人間に見せる公案ですから,もう思いやら分別やら意識やら,そんなものは通り越している。頭がすっと窓を通り越した。そして角がすっと通り越した。怒りで角が生える。感情がすっと通り越した。様々な感情をありつぶした。四つ足が通り過ぎる。この体もなくしてしまう。この体もありつぶしてしまう。全て通り過ぎた。心も体も感情も全て空に帰した。無の世界に帰した。さて,どうしてしっぽが残るのか。

「何によってか」「どうして」。五祖下の暗号(あんごう)密令(みつれい)と言います。どうしてしっぽが通り過ぎないか。理解の届かない処を問い続ける。何でしっぽが通り過ぎない。何でだ,何でだ。大疑団を起こす,大疑のもとに大悟あり。疑問が大きければ大きいほど,悟りも大きい。これは何だ。どうしてしっぽが通り過ぎないか。このしっぽは語れない。それを問い続ける。どうして,どうして,どうして。大切なところです。

先日早朝歩いておりますと,道に人が集まってざわざわしている。何かと思って見ると,親猫が五匹の子猫を道路の反対側に連れて行こうとしている。親猫が道を渡るとだいたいの子猫は付いてくるけれども,一匹がどうしても付いてこない。そこで親猫が引き返してその残った子猫の所に行くと,他の子猫も付いてきてしまう。元の黙阿弥。そんなことを繰り返している。見かねた奥さんが,ほら行けと手を出してしまった。もう猫はパニックになって,むこうこっちにちりぢりになってしまった。もうどうにもならない。手を出したらいけない。これは皆さんのことです。猫の事じゃない,皆さんの坐禅の話。

皆さんが親猫。思いや体や感情やらの子猫を何とかしようと努力している。今日の則は最後の一匹をどうするかという処ですが,まずは四匹を渡さなければならない。そこで思いや感情を何とかしようと坐っても,これがなかなか思うようにはいかない。この自分は本来自分を離れているからです。自分のものではないからです。そこに勘違いがあって,自分の心なんだから自分で何とかなると思っている。思いを思いで調えようとしてしまう。心を心で調えようとしてしまう。混乱するだけです。自分の心に手出しをしてしまう。ほら行けほら渡れ。ぐちゃぐちゃです。坐禅中にいろいろな思いが湧いてくる。それを思いで何とかしようとする。心の手を出してしまう。そして思いを掴んでしまう。この手を放す。掴んだら放し,掴んだら放し。そうすると滞った心が綺麗に流れ出す。まずはここから始めて下さい。その先に最後の一匹が待っている。しっぽが残っている。善し悪しを離れたしっぽです。何で残るか。何で通り過ぎないか。

  無門曰く,し者に向かって顛倒して,一隻眼を著し,一転語を下し得ば,以って上四に報じ,下三を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば,更に須(らく尾を照顧して始めて得べし。私たちは有るとか無いとか,生とか死とか,どうしても二つにものを見てしまう。二つ眼で世界を見る癖が付いている。二つの眼,右目で有る,左目で無い。右目で生,左目で死。右目で迷い,左目で悟り。どうしても二つに分けて考えてしまう。これをひっくり返す。そうして一隻眼を得る。眉間にスパッと縦の眼を切る。一つの眼。生と死は同じものの別な現れ方です。有るも無いも,悟りも迷いも同じものです。皆さんの思いが分別しているだけ。そこをひっくり返して,眉間に縦の眼を切る。悟りの一つ眼を開く。それを坐禅の中で体験していただきたい。

そして悟りの一句を語ることが出来れば,って上四に報じ,下三を資くべし。国の恩,父母の恩,仏の恩,社会の恩に報いることが出来る。そして欲界,色界,無色界。この三界の衆生を救うことが出来る。もしそこのところがハッキリしないようであれば,このしっぽ,これを良く照顧してみよ。

私たちは生まれてくる時,その事実を意識していません。意識できない,でも生まれてきた。私たちはこの自分,これが何ものであるか分からない。でも生きている。わたしたちはいずれ死にます。その死の瞬間に死は認識できない。でも死ぬことは出来る。これは私たちが自分を離れているということです。自分のものだと思っているから,分かると思っている。認識できると勘違いしている。理解できない,認識できないものをそのまま生きる。さてここで暗号密令。「それは何だ」。皆さんを皆さんたらしめているそれは何だ。

に曰く, 過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪何もかも通り過ぎてしまう。禅定によって何も無くなってしまう。まずはそこを体験してもらわなくては先へは進めません。禅定で思いを消し去り,感情を消し去り,そして体まで消し去ってしまう。何もない,無いということもない。しかし,そこで止まっては悟りの深い穴ぐらです。そこを体験しないと先へ進めないのですが,そこに尻を据えてはいけない。止まってはいけない。かといって,引き返しては元も子もない。この小さなしっぽ,これが全く奇怪である。これは徹底してすりあげた境涯です。ただ皆さんはまず,何もない,無いと言うこともない世界を体験しなければならない。その先にこういう境涯もあると知っておいてください。

臨済録に「途中に在って家舎を離れず,家舎を離れて途中に在らず」という有名な言葉があります。道の途中にあって家から一歩も動かない。迷いの世界に生きていながら悟りの台座から一歩も離れない。途中に在って家舎を離れず。まずはここを目指して坐る。ありつぶれ,成り切った世界です。今日の則はこの先です。家舎を離れて途中に在らず。悟りなどからは遠く離れてしまって,しかも迷いの世界にもいない。悟りの世界にも迷いの世界にもいない。どこを探してもいない。今日の則はこれから十年じっくり坐って,その後もう一度見直していただきたい公案です。