第三十五則 倩女離魂(せいじょりこん)

語録提唱

第三十五則 倩女離魂(せいじょりこん)

2015-12-23

三十五 倩女離魂

,僧に問うて云く,倩女,那箇(なこ)か是れ真底(しんてい)

無門曰く,若(も)し者に向かって真底を悟り得ば,便ち知る殻を出て殻に入ることは,旅舎に宿するが如くなることを。其れ或いは未だ然(しか)らずんば,切に乱走すること莫(なか)れ。驀(まく)として地水火風一散せば,湯に落つる螃蟹(ぼうかい)の七手八脚なるが如くならん。那言うこと莫れ,道(い)わじと。

 頌(じゅ)に曰く,

 是れ同じ,渓山各の異なる。

萬福,是れ一か是れ二か。

 

五祖法演禅師が雲水に質問した。倩(せい)という娘の魂が離れて二人になってしまった。さてどちらが本物であろうか。

そこを無門が評して,もしここのところが判れば,それは殻を出て,殻に入る。旅の途中で宿屋に一泊するようなものである。判らなければ,あれこれ考えをめぐらすな。いまわの際に臨んでみれば,蟹を熱湯におとしたように手足バラバラになるであろう。その時に決して言うなよ,あの和尚は何も教えてくれなかったと。

そこを漢詩に詠んで曰わく,雲も月も昔と同じである。谷と山は,これは別のものである。萬福萬福,さて一であろうか二であろうか。

この倩女離魂の則は難透です。修行も十年を越したあたりで見る則で,理解を阻む則です。

この倩女離魂の話は,『剪燈新話』という本に出てきます。張鑑という素封家が衝陽にいらした。その張鑑の娘がこの倩です。とても美しい娘であったということです。そこに官僚の試験を受けるために甥の王宙という者が住み込んでいた。張鑑はこの二人を許嫁にしていたのですが,張鑑が何かの心変わりで倩娘にほかの結婚相手を考え出した。時を同じくして,王宙も官僚の試験に合格したので衝陽の町を離れることになった。

官に付くため王宙が船を出して進んでいると自分を呼ぶ声がする。そこで岸に船を着けてみると,そこに倩娘がいた。ともに好いた仲です,王宙は倩娘をそのまま連れて蜀に向かった。そして蜀に止まること数年,二人の子供に恵まれた。五年ほどした頃倩に里心が付いて,一度国に帰りたいと言う。そこで子供を連れて四人で衝陽の町に帰った。

まずは王宙一人で張鑑を尋ねた。実はかくかくしかじか,今では夫婦となり二人の子供をもうけておりますと。驚いたのは張鑑で,倩は君が蜀へ旅立った後病に伏せって,今も奥で寝込んでいる。お互い行き着かぬやりとりの末,王宙と張鑑の家の者が船に向かうと,確かにそこに倩がいた。家の者は驚いて,王宙と倩を連れて家に戻ってみると,五年間床に臥していた倩が起きあがって玄関に迎え出た。そして入る倩娘と迎える倩娘が玄関でスッと一人になった。これが剪燈新話に載っている倩女離魂の話です。

,僧に問うて云く,倩女,那箇か是れ真底この話を五祖法演禅師が雲水の修行のテーマに持ってきて,この衝陽に残った倩女と王宙と蜀で暮らし,子供までいた倩女と,果たしてどちらが本物であろうかと。これはどう頭で考えても答は出ません。那箇(なこ)か是れ真底(しんてい)どちらが本物か。難透です,ここは苦労していただく所です。

円覚寺の仏光国師に「蚯蚓(きゅういん)断断(だんだん)那箇か是れ真底」という言葉があります。畑を耕していてみみずが二つに切れてしまった。さてどちらのみみずが本物か。

私が中学生の頃,プラナリアという小さな生物で実験をしたことがあります。これが不思議な生き物で,体を二つに切ると胴体からは頭が,頭からは胴体が生えてくる。友人とそれを見ながら,いったいどちらに自我があるんだろうと考え込んだものです。一つの命が二つになった。さて,二つに切ったプラナリア,どちらが本物か。

無門曰く,し者に向かって真底を悟り得ば,便ち知る殻を出て殻に入ることは,旅舎に宿するが如くなることを。もしここが本当に判れば,ヤドカリが自分の貝殻を捨てて別の貝殻に入る,それは旅の途中で旅館に一泊するようなものであると。さてここをどう取るか。多くの人が,死んで魂が肉体を置き去りにして,生まれ変わって別の肉体に入ることだと取る。皆さんはここをどう取りますか。

仏法に不思議なしと言います。新興宗教や占い師などがいろんな事を言います。全く馬鹿馬鹿しいことを言っているけれども,それに惑わされる人もいます。気を付けてください。仏法に不思議なしです。

を出て殻に入る,朝目が覚めて寝間着から洋服に着替える。少し暖かくなってきてセーターを脱いでカーディガンに替える。一昨日は横浜に泊まりました。昨日は鎌倉に泊まりました。

ここのところ,どうしても言葉に成りませんが,判らないようであれば切に乱走することれ。探し回ることを止めなさい,考えることを止めなさい。

として地水火風一散せば,死ぬ時はこの肉体は地に還り,血液や体液は水に還り,体温は火に還り,呼吸は風に還る。死ねば自分は天地に還る。ちょうど熱湯に生きた蟹を落とすと手足がバラバラと取れてしまうようなものである。湯に落つるの七手八脚なるが如し。

修行を重ねて生死から解脱することが出来れば,死んだ後に往くところが判る。さて皆さんが死んだらどこに行くか。蟹が熱湯にぽとんと落とされて七転八倒です,この七転八倒の中,死の苦しみをどう通り抜けるか。

私が白山道場の南華室(なんげしつ)小池心叟(しんそう)老師を初めて尋ねたのが二十歳の頃,昭和五十五年頃だったと思います。老師にいろいろお話しを賜りましたが,その時一枚の色紙をいただきました。かっぱが鯛を捕まえようとしている画で,その上に七転び八起きと書いてある。ああ,自分が苦しんでいるから老師は七転八起という色紙をくれたんだなと思って,帰ってからもう一度よく見ると七転八起(しちてんはっき)ではなく七転八倒(しちてんばっとう)と書いてある。まだまだ苦しみが足りない。もう苦しくてギリギリの処で行った二十歳の小僧に対して,もう一つ苦しめ。七転八倒の中に自分を忘れろと。これが本当の親切です。

言うこと莫れ,道わじと。七転八倒の苦しみの末,この自分はどこへ行くのか。皆さんにも必ずそういう時が来ます。死なない人間はいません。その時にさて,どうそこを通り抜けるか。その時に言わないで下さいよ,霊樹の和尚はここのところを何も教えてくれなかったなどと。

苦しみのど真ん中に自分を消す。自分が二つに分かれてしまうほどの苦しみ。自分が分裂してしまうほどの倩の苦しみ。さて,どちらが本物か。

是れ同じ,渓山各の異なる。萬萬福,是れ一か是れ二か。皆さんとこの天地自然とは同じものです。同じものが皆さんとなり天地となった。同じものが月となり雲となった。そういう見方があります。それを別から見れば山は山,谷は谷。男は男,女は女。善は善,悪は悪。全く別です。片方から見れば,善悪なんてものはありません。三昧に入れば有るとか無いとか,生とか死とか,そういったことも無くなります。無いというのも無くなってしまう。 是れ同じ,渓山各の異なる。

 萬福,是れ一か是れ二か。ああ,めでたいめでたい。同じで違います。違いながら同じです。ありながら無い。無いままにある。

二人の倩娘,さてこれは二つであるか,一つであるか。無理に一つにしないで下さい。しかし二つのまま安心しないでください。不一不二。一つではありません。かといって二つでもありません。これは難透です。今は全然判らなくても構いません。心の棘として刺しておいてください。

こんな歌があります。「唐崎の松は二つに見えにけり,寄せ来る波に影を映して」。海際の松が水に映って二つに見える。二つどころではありません。波が岩に砕け散って,その一つ一つの滴に松が映っています。一つの滴に天地が映っています。無限に分かれています。しかし一つです。一つであるけれども無限に分かれています。平等と差別,絶対と相対。ここのところを理屈ではなく,禅定で実感してください。

三島の龍沢寺の山本玄峰老師も,室内ではこの倩女離魂の則は透ったけれども晩年に到るまで,自分の問題として抱えていらしたそうです。それほど大きな公案です。皆さんも心の棘として,痛みとして,きちんと刺しておいてください。